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富木賜書

ときししょ #1822

富木賜書

ときししょ


富木氏(土木・富城とも書く)は富木五郎常忍といい、下総守護千葉氏の有力被官で、下総国八幡庄若宮(千葉県市川市)に住する、聖人の有力な大檀越であった。
富木氏が聖人帰依したのは建長五年(一二五三)ころで、氏は千葉氏の被官として下総と鎌倉の間をしばしば往来しており、この時聖人と邂逅し帰依したと思われる。
富木氏は聖人檀越のなかでは最も教養のある一人で、教義の理解力にもすぐれ、聖人自ら「当身の大事」と称した『観心本尊抄』を始め、教義に関する重要な著作や書状を送られている。富木氏への賜書は漢文体のものが多く、しかも聖人の体験と共に深化していく心境の推移と己証の法門が端的に述べられており、富木氏を通じて聖人の教説を門下檀越に伝達する役割をも果していた。
富木氏は文永六年(一二六九)には既に入道して常忍(じようにん)と名乗り、聖人滅後には私邸を寺として法華寺といい、自ら出家して「日常」と称し、下総の門弟を教導して中山門流の基礎を築いた。
富木氏は聖人から送られた著作や書状を御聖教として格護し、没する直前の永仁七年(一二九九)三月六日『常修院本尊聖教事』を記して目録を作成し「置文」として禁制四ヵ条を設け、第二世日高に譲った。
富木氏への賜書は『昭和定本日蓮聖人遺文』によれば四五篇であり、その中三六篇は真筆が現存している。ここにも富木氏の聖教格護の精神を見ることが出来る。
以下『定本遺文』の番号順に解題していこう。
なお富木氏の詳細な伝記については、別項該当項目を参照されたい。
ときじょうにん(富木常忍
(一)富木殿御返(ときどのごへんじ)(二)=一篇。
建長五年一二月九日付書状。
真筆中山法華経寺蔵。
内容は開宗後もない聖人が、人目を忍びつつ夜毎に富木氏との間を往復して法門談義していた様子が伺われる。

(二)一生成仏鈔(いつしようじようぶつしよう)(七)=一篇。
建長七年の書状。
真蹟は伝わらない。
一生成仏信心鈔」ともいう。
一生成仏とは来世の成仏に対し今生の成仏をいい、妙法五字による唱題成仏を説示している内容から題されたもの。
内容は聖人の弘通する妙法五字は法華経の極理であるから、この五字を唱えれば衆生の一念に十界のすべてが具わることを悟り、一生の間に直ちに成仏することが出来ると説いて、妙法五字の信唱、題目受持の信仰を勧められている。
台の止観の修行を信行化して、信心唱題に代えられたところは末法の行法の提示であるが、開宗直後の本抄の法門は佐後の但信の唱題の説示に比べると従容的である。

(三)問注得意鈔(もんちゆうとくいしよう)(六六)=一篇。
文永六年(一二六九)五月九日付書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年について文永元年、三年、八年等の異説がある。
「三人御中御書」「問注時可存知由」の異称がある。
対告について上書は土木入道宛であるが、奥に「三人御中」とある。
三人について富木氏以外の二人は、日健は大田・四条両氏といい、また大田・曽谷両氏とする説もあるが明らかでない。
内容は富木氏ら三人が幕府の問注所へ召喚され、訴えの内容は不明だが、聖人の教義と三人の信仰に関わるもののようで、聖人も念願とした公場対決の日の近づいたことを密かに悦ばれ、同時に問注所における対決についての心得を述べ、三人に対し言語態に至る綿密な注意を与えられたものである。

(四)富木殿御消息(ときどのごしようそく)(六七)=一篇。
文永六年(一二六九)六月七日付書状。
真筆京都立本寺蔵。
聖人は文永三年・四年の一一月二四日から天台大師講を始め、毎月二四日に『摩訶止観』の講説を中心とした大師講を修していたようである。
この年六月の大師講に際し、月番の明房に差支えがあったので、その差し繰りを富木氏に依頼した書状である。

(五)真釈迦供養逐状(まましやかぶつごくようちくじよう)(七二)=一篇。
文永七年九月二六日付書状。
真筆は伝わらない。
系年については建治三年説(浅井要麟)もある。
内容は富木氏が釈迦を造立し本尊として供養されたことを喜び、開眼の方法まで細かに注意され、更に信心を倍増し、後生も霊山であろうと説示されている。

(六)富木殿御返(ときどのごへんじ)(七五)=一篇。
文永七年の書状。
真筆は伝わらない。
内容は富木氏から白米等の供養を受けたことに対する礼状である。

(七)土木殿御返(ときどのごへんじ)(八六)=一篇。
文永八年九月一五日付、相模依智からの書状。
真筆京都本満寺蔵。
聖人は九月一二日夜、竜口で首を斬られようとしたが、不思議の天変によって難をのがれ依智の本間の館に入られ、その間の情を富木氏に書き送った。
内容は相次ぐ受難の体によって、勧持品二十行の偈、ことに「数数」の二字を色読し了り、仏記符合、経証具足、我が身法華経の行者なることが完全に証され、この功徳によって過去謗法の重罪を消滅し成仏は疑いないと、懺悔滅罪の心境と法悦を述べて、富木氏を慰籍し、信仰を励まされている。

(八)寺泊御書(九二)→てらどまりごしょ

(九)富木入道殿御返(ときにゆうどうどのごへんじ)(九三)=一篇。
文永八年一一月二三日付、佐渡からの書状。
真筆は伝わらない。
内容はまず佐渡の気候、風土、人心を述べ、次いで今正しく末法濁悪、天変地夭の前相すでに顕れ、本化上行出現して本法弘通の時に当っている。この時、聖人が正像未弘の一大秘法を弘め、経文の通り諸難に値っているから、豈に本化上行の再誕その人に非ずや、と述べられている。亡国の凶兆とした正嘉以来の天変地夭は、本化出現の祥瑞とされ、富木氏に諸経論の保管を要請し、土建設に精進すべきことを勧められている。
前の『寺泊御書』では「八十万億那由他の諸の菩薩の代官」といわれた聖人が、一月後の本抄では自ら地涌の菩薩の出現なることを暗示された。
『開目抄』の人開顕、『本尊抄』の法開顕に連なる本抄は、短篇ではあるが聖人の心的推移、思想的発展に一線を画すものとして重要視されている。

(一〇)八宗違目鈔(九六)→はっしゅういもくしょう

(一一)富木殿御返(ときどのごへんじ)(一〇一)=一篇。
文永九年四月一〇日付、佐渡一谷からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
本抄は聖人佐渡塚原から一谷へ移られて最初の書状である。
内容は聖人自ら法華経の行者であるとの確信に立たれ、諸天の加護がないことについて、一には善神捨国の故、二に善神が法華経の法味を嘗められず威光勢力を失ったため、三には大悪魔が三類の強敵の心中に入り梵天・帝釈の力が及ばないため、と三つの理由を挙げ、詳しくは四条氏に託した書(『開目抄』のこと)を見よと諭され、最後に聖人の生涯について、本より思い切った生涯であるとの覚悟が披瀝されている。

(一二)真言諸宗違目(一〇六)→しんごんしょしゅういもく

(一三)観心本尊抄副状(かんじんほんぞんしようそえじよう)(一一九)=一篇。
文永一〇年四月二六日付、佐渡一谷よりの書状。
真筆中山法華経寺蔵(宝)。
聖人は『観心本尊抄』一篇を撰述し、富木氏に宛て門下一同に示されたが、そのの副状が本抄である。
内容は『本尊抄』を「日蓮当身の大事」と指定し、更に『本尊抄』拝読上の注意を与え、述作の覚悟を述べ、最後に行者死後の浄土が「霊山浄土」であることを示されている。

(一四)富木殿御返(ときどのごへんじ)(一二六)=一篇。
文永一〇年七月六日付、佐渡よりの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
「伊与房器量由」(日常・日祐両目録の名付)の異称もある。
本抄は赦免のないことを歎かれた富木氏に対する返書である。
内容は赦免にならないのは子細あるからで少しも歎くことはない。
たとえどのような境遇にあろうとも妙法五字広宣流布は疑いないとの確信を述べ、正・像二時に誰も知らず弘めなかった本仏と本法の流布すべき末法に生れ合わせ、これを開顕し弘通することによって、法華経の文を色読した聖人の果報を悦ばれている。
短篇ではあるが、簡潔な文面の中に妙法流布の確信とその心境が述べられている。

(一五)土木殿御返(ときどのごへんじ)(一三一)=一篇。
文永一〇年一一月三日付、佐渡よりの書状。
真筆京都本圀寺蔵。
本抄は末尾一紙のみが伝えられ、詳細な内容は不明であるが、白小袖の供養に対するお礼を述べ、更に当時の飢饉疫病の様子が記されている。
なお「実に器量者也」の文を、北尾日大(「遺文全集講義」二七巻)は「大進阿闍梨」と解しているが、前書(一四)との関係から富木常忍の義子である伊与房と見るのが妥当である。

(一六)小乗大乗分別鈔(しようじようだいじようふんべつしよう)(一三六)=一篇。
文永一〇年佐渡からの書状。
真筆断片小湊誕生寺他に散在。
本抄は末尾を欠いているため、系年・対告について異説がある。
系年については『定本遺文』は日諦・日明の両目録に同じて文永一〇年とみたが『対照録』説は文永八年、古く文永九年(境妙庵目録)説もありる。対告についても、南条氏(録外考文)や南部氏(高祖年譜)とする説もあるが、今は縮刷遺文に従い富木氏宛書状とする。しかしながら系年・対告・などさらに検証すべきである。
「大小乗分別抄」(本満寺本)「大小分別抄」(祖書目次)の異称もある。
内容は大乗と小乗の区別を詳述し、次いで二乗作仏久遠実成の教相の二箇大事と一念三千の観心とは、法華経のみ説くところであって、法華経が真実の大乗経であり、諸経はすべて小乗、未得道であると説示する。
そして一念三千の仏種の具体的事実たる仏の化導の始終について、今番の得道、爾前の往生成仏から更には仏滅後三時の得益を、悉く過去久遠の下種に帰し、末法には過去下種の機が尽きるために本化の菩薩が出現して逆謗の機に下種すべきことを説く。
そして末法今時の諸宗が法華を誹謗するのは、自ら堕獄の業を作ることであり、破仏破国の因縁となると断じ、謗法を厳しく責められている。

(一七)法華行者値難事(一四〇)→ほっけぎょうじゃちなんじ

(一八)富木殿御書(ときどのごしよ)(一四四)=一篇。
文永一一年五月一七日付、身延よりの書状。
真筆千葉県鏡忍寺蔵。
聖人身延入山後の最初の書状である。
聖人は文永一一年四月八日、第三国諫を行ったが容れられないことを知って、五月一二日鎌倉を去って身延山へ入られたのである。本抄には一二日から一七日まで、道中の日記と到着時の感懐を記し、無到着を富木氏へ知らせたものである。
聖人法門のことはもとより、身辺の変化についても誰よりも第一に富木氏へ書状を送っているが本抄もその一つである。
また本抄は法華経弘通に挺身してきた聖人の山中に入る心情を語られた書として著名である。
なお本状は中山法華経寺旧蔵で同寺から流出したものである。同例は前出四・七・一五、後出一九・三〇・三六・三七・四二などがある。

(一九)富木尼御前御返(ときあまごぜごへんじ)(一四六)=文永一一年、身延からの書状。
真筆池上本門寺蔵。
文永一二年説(対照録)もある。
富木氏夫人から帷等の供養を送られたことに対するお礼状である。

(二〇)聖人三世(しようにんちさんぜじ)(一五七)=一篇。
文永一一年、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年について「境妙庵目録」等は建治二年としている。
日付、宛名を記した第六紙を欠くが、古来より富木常忍に宛てたものとされているが、そのことは「日常目録」「日祐目録」所載によって明断できる。
内容はまず聖人とは、過去・現在・未来の三世に精通し照覧する人をいうと定義し、外道・仏教の教理の浅深により聖人に優劣があり、法華経の教主釈尊こそ真の聖人であるとする。そして滅後末法においては『立正安国論』に予言した内乱・外冦の的中をもって、仏記符号の法華経弘通の行者として未萠の大難を知る日蓮聖人こそが「一閻浮提第一の聖人」であると公称し、法華経の行者たる聖人を迫害するから諸天が瞋りをなし日本国を責めるのであり、再び蒙古に攻められて滅亡しようとしていると断言し、これも法華経の威力の尊勝なることによると述べられている。

(二一)富木殿御返(ときどのごへんじ)(一六二)=一篇。
文永一二年二月七日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
本抄は富木氏から帷(かたびら)を供養されたのに対するお礼の返書である。
聖人は仏在世の飢饉の時に一人の比丘が袈裟を売ってその資を仏に供養した故事を引いて、その功徳の甚大なることを説き、九〇歳にならんとする母尼が我子常忍のために作った帷を自分日蓮のために供養された功徳を讃嘆し、これを着て日に申上げれば、梵釈諸も定んでこれを知り嘆することであろう、と述べている。
なお母尼はこの翌年の建治二年二月、九〇歳をもって没した。

(二二)可延定御書(かえんじようごうごしよ)(一六三)=一篇。
文永一二年二月七日付、身延から富木氏夫人へ与えた書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年について「日諦目録」『縮刷遺文』等は弘安二年と推定している。
「病軽重」(日祐目録)、「依法華経可延定抄」(本満寺本)の異称がある。
内容は病床にある富木尼に対し、阿闍世王・陳臣並びに聖人実母蘇生の例を挙げ「閻浮提の人の病の良薬」と説く法華経を深く信ずれば、どんな病悩も平癒するにちがいないと慰め、法華経は過去の宿業による定業さえも転ずる功徳があると説いて、法華経の信仰を勧め、なお四条金吾は医術に堪能であるから治療を依頼せよとえ、尼御前のために平癒の祈願をしようと述べて、富木尼の闘病生活を激励されている。

(二三)御衣竝単衣御書(おんころもならびにひとえごしよ)(一九五)=一篇。
建治元年(一二七五)九月二八日付、身延から富木氏夫人へ送られた書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年について文永七年或は六年(対照録)がある。
「鮮白比丘」(日常目録)とも呼ばれる。
本抄は、富木氏夫人が御衣の布と単衣を供養されたので、その志を謝し、鮮白比丘尼の故事を引いて功徳の甚大なるを述べ、法華経を信じ行者を供養すれば「無一不成仏」の仏の金言の如く、布施供養の功徳によって成仏は疑いないと示されている。

(二四)尊霊御菩提御書(そんりようごぼだいごしよ)(一九八)=一篇。
建治元年一一月、身延からの書状。
真筆京都頂妙寺蔵。
本抄は『定本遺文』に初めて収録され、題号は冒頭の文によって付された。
文中に大田氏及び観心法門にふれていることから富木氏宛書状と推定。
「尊霊」が誰を指すかは不明。もし建治二年二月、九〇歳で死去した富木氏の母尼とすれば、本抄の系年は建治二年となる。
しかし大田氏の病悩の期(大田賜書の(六)、(七)参照)と次の『観心本尊得意鈔』との関係、および筆蹟から『定本遺文』は建治元年一一月と推定した。
なお文中の「観心法門」を『本尊抄』と関連させて『対照録』は文永一〇年の書状と推定している。

(二五)観心本尊得意鈔(かんじんほんぞんとくいしよう)(一九九)=一篇。
建治元年一一月二三日付、身延からの書状。
真蹟は伝わらない。
本抄は富木氏が供養の品々と共に、曽谷教信らが『本尊抄』の「本門の正宗一品二半の外は未得道教」の文を誤り解釈して、迹門は無得道なれば読まずとの義を構えていると報じて来たのに対する返書である。
内容はまず供養の謝辞を述べ、次に曽谷氏らの誤りをただして、迹門を捨てよと説いたのは、天台宗の弘める法華経を迹門といい、末法無益であるから像法過時・去年の暦として捨てよといったので、日蓮所弘の法華経の前半迹門を捨てよと説いたのではないと示している。
また北方(ぼつけ)の能化爾前諸経を引用する矛盾を指摘したのに対して、諸経は法華経のための方便教であるから、成仏の大綱以外のことには爾前諸経を引用し助証としてもよいと、大綱と網目の関係をもって説明されている。
なお本抄に迹門不読の義がある等の点から、古くより真偽の論が行われてきたが、その成立については研究の余地がある。

(二六)富木尼御前御書(ときあまごぜんごしよ)(二一一)=一篇。
建治二年三月二七日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
古くは「尼公嘆御状」(日常目録)とも呼ばれた。
富木氏がこの年二月死去した母尼の遺骨を奉じて、身延聖人を訪れた、富木氏にして病床の尼御前を慰諭された書状。
内容はまず尼御前が夫を助け、姑に仕えた労をいたわり、その功を嘆し、強盛の信心に安住すれば病も平癒するであろうと激励されている。
もし悲嘆のには蒙古来襲のため九州へ赴いた武士のことを想いなさい、彼らは法華経の行者日蓮を迫害するため、十羅刹女の責を受け生きながらの苦悩を受けているのである。
それに比べ教主釈尊の教えに随い、妙法五字を日々に信唱している我らの成仏は決定して疑いないと信仰を勧誡されたものである。

(二七)忘持経(ぼうじきようじ)(二一二)=一篇。
建治二年三月、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
本抄は「物忘者」(日常目録)「物忘」(日祐目録)「与富木氏書」(日諦目録)等ともいい、「祖山納骨鈔」(本間海解)ともいう。亡母の遺骨を奉じて身延の聖人を訪れた富木氏が、その帰りに持経を忘れたので、聖人が使をもって届けさせたに付した書状である。
内容は古今の有名な物忘れの者の例をあげて富木氏が持経を忘れたことを「日本第一の好く忘るる仁か」とユーモア交りに訓し、諸宗が釈尊の本意を忘れたことを破折する。
更に上代の聖者は身命を捨てて仏道を求めたが、富木氏は凡夫として父母の孝養を怠らず、死後は遺骨を奉持して遠く下総から身延山の釈尊の御宝前に得脱を願う、これ無始の業障を消滅し即身成仏の大果を得ると、信仰一如を嘆している。
原文は漢文体で、対句法を用いた叙情と叙景と訓とを具えた名文である。

(二八)道場神守護(どうじようじんしゆごじ)(二三二)=一篇。
建治二年一二月一三日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
道場神守行者」(日常目録・日祐目録)とも呼ばれる。
宛名は「御返」とあって実名不記であるが、受信者富木氏がその受信目録(日常目録)に登録しているので富木氏宛はまちがいない。
富木氏が法華道場の守護神たる十羅刹女の宣について報じたのに対し、それは災を攘い幸福の来る先兆であるから、信心堅固に法華経の修行に精進するよう励まされている。

(二九)四信五品鈔(二四二)→ししんごほんしょう

(三〇)鼠入鹿(ねずみいるかのこと)(二五一)=一篇。
建治三年身延からの書状。
真筆京都立本寺蔵。
本抄は従来の遺文録には全く収録されず『定本遺文』に初めて収められたもので、冒頭の文から題号を付し、筆蹟から建治三年とした。
内容は銭・酒の供養を謝し、ねずみいるかの油をしぼる悪臭の甚だしいことを述べ『扶桑記』を引いて、この悪臭により悪鬼がこのに入ると示している。
本状は冒頭部分のみを伝える断簡であるが日常・日祐の両目録に登録されているので富木賜書と知れる。いつしか中山法華経寺から流出して現蔵寺に入ったものである。

(三一)富木殿御書(ときどのごしよ)(二五五)=一篇。
建治三年八月二三日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
「不可親近謗法」(日常目録)ともいう。
系年について、建治元年説(日諦目録・縮册遺文)、弘安元年説(境妙庵目録)もある。
内容はまず謗法者の恐るべき罪過を法華経等の経論を引いて証し、天親・馬鳴・伝教らの古賢の忍難求法は法門の邪正を糾し正法を護持せんためであったとする。
いま日本の八宗、殊に真言の弘法・慈覚・智證は、仏の出世本懐の経たる法華経を戯論の法と定めた三国切っての謗法者であり、日本国の衆生を無間地獄に導く大謗法者である。故に我が門家は昼は暇を止め、夜は眠を断って謗法を糾明せよ、と激励している。
古称の「恐懼謗法御書」は内容によっている。「止暇断眠御書」という俗称もある。

(三二)始聞仏乗義(二七七)→しもんぶつじょうぎ

(三三)富木入道殿御返ときにゅうどうどのごへんじ。
(二九四)=一篇。
弘安元年(一二七八)六月二六日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年について『縮册遺文』は弘安五年としたが、向井教遠の考証(『大崎学報』三五号)により、弘安元年が妥当である。
本抄は「治病大小権実異目」(日常・日祐目録)ともいい、略して「治病抄」ともいう。
疫病が流行したため富木氏が祈祷を要請したのに対する返書である。
内容は人の病には身の病と心の病いの二つがあり、身の病は医薬によって治るが、法華経を謗る心から起った病は、法華経本門の絶対信奉の力によらなければならないと、悪世謗法を克服する法を明示された。即ち仏法には大小・権実・本迹の浅深勝劣があるが、諸宗はその邪正を弁えず自宗に執着し、ことに天地水火の別ある法華経の本迹二門を混同しているために、病をつのらせ国に三災七難が起ったとしている。そして末法今時の三災七難は、法華経の行者日蓮が法華本門の肝心たる題目を弘通して以来、日本国一同に怨み敵対し迫害したから起ったのであり、今や謗法者が国に充満している。これを救うのは法華本門の題目であるが、天台が像法に迹門の理の一念三千を弘通してさえ三障四魔が起ったが、末法に聖人が事の一念三千の題目五字を弘通すれば、それ以上の大難が起っている、これは弘める法が勝れているからであると述べられている。
なお本抄端書にあるように、同日に四条金吾へも書状が書かれ(四条賜書の(二八)・中務左衛門尉殿御返事)、この方にも「法門のかたつら」が書き送ってあるから両方共に読み合わせるよう指示している。

(三四)富木入道殿御返(ときにゆうどうどのごへんじ)(三一〇)=一篇。
弘安元年一〇月一日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年について、建治三年(縮刷遺文)、弘安二年(対照録)の異説がある。
本抄は「日常目録」「日祐目録」には「禀権出界法門」とあり、古来より「稟権出界抄(ほんごんしゆつかいしよう)」(平賀目録)、「常忍抄」(日朝目録)とも呼ばれている。
この年九月頃、富木氏は天台宗の下総真間弘法寺の学頭了性房と法論し『法華文句記』の「権を稟て界を出づるを名づけて虚出となす」の文をあげて了性房を屈伏させ、その模様を聖人に報じたが、その返が本抄である。
初めに「稟権出界」の文について経釈を引いて解釈し、迹門以下を小乗教と判じ、次いで諸宗の誤りを示し、龍樹・天親・天台・伝教等の三国の人師未説の法門と称する。
次に不信謗法については、不信は謗法・堕獄と決し、聖人弘通の法門は「第三の法門」と標榜して三国未弘の法門なることを示し、了性房の敗北は法華誹謗の結果であるとする。
更に法華行者の持について『止観』と『文句』の同異を会通し、伝教の末法無戒によせて、法華本門を顕している。
そして深く今後の問答を誡められ、大進房等のことについて述べられている。

(三五)四菩薩造立鈔(しぼさつぞうりゆうしよう)(三三五)=一篇。
弘安二年五月一七日付、身延からの書状。
真筆は伝わらない。
本抄は富木氏が種々の供養物を送り、一尊四士本仏・本脇士を造立するについて、意義と期を尋ねたのに対する返書である。
聖人は三国未有、正像未弘のゆえんを示し、末法の今が正しく本門本尊造立の時であることを、法華経並びに台・伝の釈を引いて論証される。
次に太田方の人々が迹門無得道の義を主張することについて、末法を一向本門というのは本正迹傍・本面迹裏の意で、迹門を捨てよの意ではないと誤りを正し、そのような邪義によって堕獄せざるように誡め、最後に三位房日行の死去について弔意を表し回向されたことが述べられている。
本書は古来より真偽についての論議があり、前の「観心本尊得意鈔」の成立と併せ研究すべき余地がある。

(三六)富城入道殿御返(ときにゅうどうどのごへんじ)(三五一)=一篇。
弘安二年一一月二五日付、身延からの書状。
真筆平賀本土寺蔵。
系年については弘安三年説(対照録)もある。
富木氏から来年三月分の斎料が送られて来たのに対する礼状。
毎日断なく法華経を読誦し、その功徳をもって病身の夫人の寿命長遠を諸に祈ったと述べられている。

(三七)富城殿女房尼御前御書(ときどのにようぼうあまごぜんごしよ)(三五二)=一篇。
弘安二年一一月二五日付、身延からの書状。
真筆小湊誕生寺蔵。
系年について弘安三年説(対照録・鈴木一成)もある。
富木氏夫人の病状を見舞い、子息伊与房日頂の学解が進歩したことを報じ、また聖人が年少の頃より恩を受けたことを感謝している。そして熱原法難の渦中の人である越後房日弁と下野房日秀を下総に避難させ、富木氏の庇護を夫人を通じて依頼されている。

(三八)富木入道殿御返(ときにゆうどうどのごへんじ)(三六四)=一篇。
弘安三年四月一〇日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年について弘安四年説(対照録)もある。
富木氏が鵞目を供養したのに対し、その志を謝し、十羅刹の守護は疑いないと述べ、夫人の病状を心配し慰められている。

(三九)諸経與法華経難易(しよきようよほけきようなんいじ)(三六七)=一篇。
弘安三年五月二六日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
「諸経と法華経と難易のこと」と読む。
本抄は「難信難解書」(日諦・日明目録)とも呼ばれる。
富木氏が法華経法師品の「難信難解」の文について尋ねてきたのに対し、聖人が問答体形式をもって答えられた書。
内容はまず仏滅後二千余年の間「難信難解」の文を正しく読んだのは龍樹・天台・伝教の三人のみであることを示し、次に他宗所依の諸経は仏が未だ本意を述べない随他意方便の教で易信易解であり、独り法華経は仏の本懐を明かした随自意真実の教で難信難解であると教示されている。そして仏法と世法の関係について、衆生が決定信に住して仏の随自意に随う時は成仏疑いなく、この一切皆成仏の法華経こそが一切法の根本であり、世間の体であり、国家社会人類の指導精神であることを明かされる。しかるに日本国は弘法・慈覚・智證以来、世間の体である仏法の本末が転倒し、随自意の法華経が失われたために世が混乱しているのである。
幸い聖人の門下は随自意の法華経信仰受持しているから成仏は疑いないが、諸宗の学者等は謗法による堕獄は脱れないと述べている。
本抄は「体曲れば影斜めなり」と示して、家も人民も法華経の精神を基とすべきことを諭したもので、立正安国思想の根底をなすものである。

(四〇)富木殿御返(ときどのごへんじ)(三八九)=一篇。
弘安三年一一月二九日付、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵(重要文化財)。
系年については建治二年説(縮刷遺文)、弘安四年説(対照録)もある。
古くは「尼公所労伊与房令祈由」(日常目録・日祐目録)と呼ばれた。
本抄は富木氏から大師講供養を送られたのに対し、経釈を引いて法華経受持と供養の功徳を讃嘆され、更に夫人の病気を案ぜられた聖人が、自ら病気平癒を諸天に祈られたばかりでなく、夫人の義子伊与房にまで祈祷を申しつけたことを述べ、心強く思うよう励まされたものである。

(四一)富城入道殿御返(ときにゆうどうどのごへんじ)(四一三)=一篇。
弘安四年一〇月、身延からの書状。
真筆中山法華経寺蔵。
但しこの真筆本は病床にあって筆を執ることが出来なかった聖人が、門下に口述代書させ、最後に自ら署名と花押を加えたものである。
本抄は「承久調伏」(日常・日祐目録)、「承久合戦之間」(本満寺目録)、「承久消息」(日諦目録)とも呼ばれている。
本抄は「弘安の役」を背景に真言亡国を強調したものである。
ちこの年閏七月一日、蒙古軍は大風に吹かれて敗退した。
これを世の人々が真言師の調伏による法験であると噂するのを、富木氏が身延の聖人に報じた。聖人はこれに対して承久の乱の先例を挙げて、真言の調伏が成就する可能性のないことを示し、王法に敵した二〇余名が本懐を遂げなかったように、経王法華に違背する真言の祈祷に法験なしと否定した。そして弘安の役をめぐって聖人門下への世人の批判に対して一切取合わないようにとの態度を指示し、法華堂建設のことを述べて結ばれている。

(四二)越州嫡男並妻尼(えつしゆうちやくなんならびにさいにのこと)(四一四)=一篇。
弘安四年一〇月二七日付、身延よりの書状。
真筆断片大阪、坂田氏蔵。
内容は越後守盛の次子光(聖人を迫害した武蔵守宣時の従兄)が謀反の疑いによって流罪に処せられたことを記し、四条氏の書簡について述べ、富木氏の義子たる伊与房の近況を「存外の情、智者なり」とえ報じている。
(一四)の「富木殿御返」や(三七)の「富城殿女房尼御前御書」と共に、聖人が伊与房を慈愛し庇護護されていたことが知られる。

(四三)大黒天相伝肝文(だいこくてんじんそうでんかんもん)(続一六)=一篇。
弘長元年(一二六一)三月一三日付の書状。
真蹟は伝わらない。
本抄の成立については古来より議論があり、『録外考文』巻七にも「古来真偽の論あり」と指摘されている。
恐らくは聖人滅後、日蓮宗大黒天信仰のために偽作されたものと思われる。
内容は法華経諸品の肝文を列ねたものである。

(四四)大黒送状(だいこくそうじよう)(続一七)=一篇。
弘長元年三月一三日付の書状。
真蹟は伝わらない。
本抄も前書と同じく成立に問題があり『録外考文』巻三には「彼書真偽未決」というが、恐らく偽作と思う。
内容的にも「富木殿と大黒と法華経と日蓮とを謗せば争か福分有るべく候はんや。
所詮昔の大黒とは今は日蓮是也」と述べるなど、弘長・文永期の確実なる遺文と比し、文体・内容ともに径庭がありすぎる。
前書と同じく日蓮宗大黒天信仰のために、聖人の大檀越富木氏の名を借りて偽作したものであろう。

(四五)成仏法華肝心口伝身造鈔(じようぶつほつけかんじんくでんしんぞうしよう)(続三二)おおたししょ(大田賜書一六)
(小松邦彰)

【補記】
(一)本状はつとに真筆否定説があるが、近代筆説が提起された。従うべき見解である。
(二)対告者富木常忍説は確証のない一説であるとしなくてはなるまい。
(三)三人の出頭先はは幕府の注所ではなく、下総守護所のそれであろう。
(五)本書書名の読みについて、真釈迦供養逐状の末尾二文字の読みは異説がある。本『事典』では「ちくじょう」と読む。管見だが、先行書『遺文全集』等も「ちくじょう」であるが、後出の『遺文辞典』は「おいじょう」である「すいじょう」とも「とげじょう」とも読める。書状内容からの書名であるので各読みどれも適当であろうが、今後、明白な統一呼称を定めるべきである。
(一五)近真蹟前欠状とされてきた本状と真蹟後欠状とされてきた『越州嫡男並妻尼事』(後出四二)の両状が、一連する一通の完篇であることを論証する坂井法曄論文がある。この論によって正しい内容理解が得られ、従来解釈が訂されるにいたった。よって、一五、四二の解説は書き直しが必要である。坂井論文は「金沢北条氏に関する日蓮の記録」(『興風』一八号)。
(一九)極小短簡の本状を重厚に考察した専論がある。系年は『対照録』説を受容してさらに進め、対告は富木氏夫人に非ずして富木氏その人とするなど富木賜書の研究深化のために研究者の一見を要としよう。(岡元錬城稿「『定本』置題『富木尼御前返事』の研究―その誤題・誤系年等批判―」同氏著『日蓮聖人遺文研究』二巻所収)
(二〇)専論がある。岡元錬城稿「日蓮聖人書状『聖人三世事』小考』(同氏著『日蓮聖人遺文研究』第一巻所収)。
(三三)またさらに日蓮聖人はこの日池上兵衛志へも書状を書き送っている(池上賜書の㈨兵衛志殿御返事)。聖人は三通の書状を連続して執筆した。
(三四)大進房のことはいわゆる「熱原法難」、駿河熱原の地の門弟に加えられた国権弾圧事件の当事者の一人の名が大進房である。大進原の名をあげて事件に対処している富木氏に指示した文言が本状に存するのである。よって本状の「定本遺文」の系年弘安元年は誤認と否定すべきであって弘安二年「対照録」説が真相をうがつ正しい系年である。
(三七)本状は前状と同日執筆で夫妻宛各一通を綴ったもの。日弁・日秀二人の弟子への対応についての解は両状の系年問題及び、熱原法難とかかわって慎重な研究が要請される。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻・所収「同日両状『富城入道殿御返事』『富城殿女房尼御前御書』の研究―系年と熱原法難の終結をめぐって―」)。
(四〇)系年の「定本遺文」弘安三年説は著名「日蓮」の「蓮」の字しんにゅう「辶」のはねの筆法によって明白に否定される。ち弘安四年説が正解である。
(四一)「定本遺文」が書状本文を欠く某状の追伸文として『老病御書』を名付け単行させた遺文番号四一七書がある。推定執筆年代弘安四年一一月頃とする。本追伸は実は本状代筆の本状『宮城入道殿御返事』に付されていたものである。このことは法華経寺蔵真蹟を伝える各種目録によって判然とする。また、日付「一〇月」とは「定本遺文」の誤りで「十月二二日」である。故に『老病御書』の推定説も誤りである。
(四二)日蓮聖人遺文の一通としての『越州嫡男名並妻尼』は沫消して存せぬこと。つまり本状は前出一五『土木殿御返』の前半であること。故に既往の内容解等は反故に帰すものであること等、新出稿によって論断された。一五の補記参照。
富木賜書」として四五篇があげられ解題されたが、記述への不足等は各条に付加した。以下さらに若干を補い、富木賜書理解に資したい。先づ「昭和定本」によるとしてあげられた数値四五は、たとえば注記したように四二は一五に吸収されるから一通減となる。研究の進展はかような事実を生むのであるが、富木賜書として見落された事例があり、また新研究によって新たに加うべきものとして指摘された場合もある。それら富木賜書として加えるべき遺文を左に列記する。
一、『止観第五之事御消息』(定本遺文番号七四)
定本における書名は「上野殿母尼御前御書」、同系年は文永七年。上野氏の母宛状とされてきた本状の対告者の誤認定、従って誤った書名、及び誤系年、これらすべてを正し、対告者は富木常忍、新書名は書状冒頭の文からの名付(富木氏作成の「日常目録」では「母尼公信法華経之條悦思食由事」)。系年は文永五年。かように明断した学績は『日蓮大聖人御真蹟対照録』(中巻七五頁往見)である。「定本遺文」増補改訂版はこれ受けて改める意向を示したようであるがいさぎよい処置を施していず遺憾におもえる(同版脚注往見)。また、本状は旧蔵中山法華経寺である。同寺からの流出時期・流出事情等は未詳に属するが、一端京都妙顕寺に流入し、ついで元禄一三年(一七〇〇)に現蔵熊本本妙寺へ譲与されたものであることが表具裏書によって判明する。「日蓮聖人書状『止観第五之事御消息』について」(『日蓮聖人遺文研究』第一巻岡元錬城)
二、『法衣書』(定本遺文番号三九八)
定本遺文によれば本書の対告者は不明である。従って「富木賜書」項には列挙されていない。しかしながら、真蹟四紙断(日付・充所・署判等が記されていた最末第五紙欠失不存。本文は第四紙で完結しているらしい)が中山法華経寺に古来存しつづけて現存する。富木氏は作成した「日常目録」に内容から命名して「施衣食於人果報事」と称した。日蓮聖人からの受信目録である「日常目録」への登載事実によって対告不明扱いの現称『法衣書』は富木常忍賜書と判明する。定本系年は日蓮聖人最晩年の「弘安三年」とするが大誤であって山川智応・『対照録』の文永七年が正しいと判ずべきである。真蹟末紙欠失によって生じた系年と対告者への混乱・混述だが、我等後人の学力の不足を嘆ずべきものか。
三、『御衣布給候御返』(前同四三五)
昭和四三年再版にあたって増補された一篇で真蹟折紙形態一紙、京都本法寺所蔵。内容は衣布を送られたことへの礼状。充所は実名は記されぬ「乃時」の「御返事」。対告は富木常忍で、中山法華経寺旧蔵寺外流失書。「日常目録」では受信書状列記個所「御消息分」に個別各通合計四六通と一括八通の名辞「雑雑御状」、合わせ五四通が登載されている。「雑雑御状」とは用箋一枚の短簡遺文をさしている。四六通のように個々の名を付さぬ一紙状八通が存したそのうちの一通が本書『御衣布給候御返事』と推考する。八通それぞれの遺文比定は推側可能なもの数通あるが全貌は不明である。その中にあって本書の場合は確実と考えられるのである。その検討稿を往披せられたい(岡元錬城編著『真蹟対照現代語訳日蓮聖人の御手紙』第一巻富木常忍篇の「解題」)。
四、『金吾殿御返』(前同七三)
「定本遺文」七三番書『金吾殿御返事』は、同本によれば系年は文永七年で対告は「太田氏へ」と脚注する。従って書名を誤まる。これら大誤のほかなく、正解は文永六年で富木常忍宛状である。書名は「日祐目録」は「大師講事」、最古の写本日澄本は「法華捨身念願抄」。共に富木常忍賜書として登載し書写している。富木氏作成の「日常目録」未載であるのは脱漏であって、後続の「日祐目録」が「法華寺聖教目録分」の最末尾に「大師講事」の名を付けて追記し補正したのである。また、写本日澄本とは(日澄は富木常忍の義子である)日澄が義父富木常忍宛諸書を書写したもので、それを告げて写本奥書に「日常所賜」と明記している。要するに右の二視点は刊本『録外御書』いらいの名称『金吾殿御返事』は誤称であることを証している。また、系年が文永六年であることは古今その論者多いがとりあえず岡元錬城「日蓮聖人遺文系年考〈その1〉―『金吾殿御返事』(付『止観第五之事御消息』)―」(岡元錬城『日蓮聖人遺文研究』第一巻)がある。
五、『白米和布御書』(前同二〇四)
『定本遺文』に新加された真蹟一紙完篇状。充所が「御返事」とあるのみで実名が書かれていず、従って対告者が不明である。岡本錬城は対告者を富木常忍とし、定本の推定系年「建治元年頃」を否定して文永七年と考察する。今はその専論をあげておく。同氏「『白米和布御書』系年・対告者考」(『日蓮聖人遺文研究』第二巻)。
六・七、『阿仏房御返』(二九二)、『日嚴尼御前御返』(三九〇)
最近発表された研究によって両状が富木賜書の可能性あることが主張された。従来未聞の新見解であるが、論拠が添えられた強固な主張で汲むべきものと思われる。論者は興風談所池田令道、山上弘道両氏である。
八、『日常目録』所載「尼公」賜書のこと
富木常忍作成の『常修院本尊聖教事』(略称「日常目録」)には「尼公」を冠する書状が幾通も存する。その一通「尼公讃嘆御状」とは現行書名『富木尼御前御書』(定本遺文二一一番)で、富木氏の妻宛状。夫人の内助の功絶大をほめたたえた手紙で、氏は作成目録に内容から個有の名辞を付したものである。また「尼公所労御歎由事」は日蓮聖人が夫人の病身を心配していることを富木氏宛状に述べたが、その旨を夫人へ伝言してほしいと告げた状である。現行書名『富城入道殿御返』(同前三六四番)。かように書状内容から夫妻宛各状に尼公の名を付したのである。ところで、日常目録の「御消息分」には五四通が列記されている(用紙一枚の短簡状は個々の書名を付さぬ指名辞「雑雑御状」として八通が挙げられるが五四にはこの八も含む)。このうち、現在に伝えられていない文献がある。いつしか門外不出の禁が破られて寺外へ流出してしまい、そのいくつかは他寺に現蔵されるが、消滅に帰したものもある。その消滅状に次がある。
1、尼公御返
2、尼公参詣難有由
3、尼公延命
4、尼公
「尼公」、つまり富木氏の妻宛状四通が挙げられる。妻宛状の寺外流失・消滅が多かったことになる。右四通は写本も残さず消滅してしまったのであった。ちなみに、富木氏が自身の妻をさしての「尼公」呼称は不自然かの指摘もあり得ようが、近侍の右筆の職にあった者が主の妻を言ったものであるから自然なことである。この他、常忍宛書状中の流出消滅書(目録書名「不可遁世由」「御恋慕由」など)、さらに右記「雑雑御状」中の数書。これらを総じて言えば富木賜書の法華経寺寺外への流失書は相当な数といえ、加えれば、富木氏が収集し書写もしたであろう真蹟以外の文献、目録に真蹟以外の所蔵書として列挙する「御書箱」収録文献、「要文箱」収納文献、これら悉皆は流失し、その一・二を除くべきか実体不承知だが全滅してしまっている。とまれかようであって、「富木賜書」として解題された文献数は四五篇であったのだが、指摘した七通が存して追加され、また流失消滅書も多数存した事実は富木賜書総体の検出に必要であろう。
《『遺文辞典』歴史篇「一生成仏鈔」「越州嫡男並妻尼事」「御衣竝単衣御書」「可延定業御書」「観心本尊得意鈔」「観心本尊抄副状」「四信五品鈔」「四菩薩造立鈔」「始聞仏乗義」「小乗大乗分別鈔」「聖人知三世事」「成仏法華肝心口伝身造鈔」「諸経與法華経難易事」「真言諸宗違目」「尊霊御菩提御書」「大黒送状」「大黒天神相伝肝文」「寺泊御書」「道場神守護事」「富木尼御前御書」「富木尼御前御返事」「富木殿御書」「富木殿御消息」「富木殿御返事」「土木殿御返事」「富城殿女房尼御前御書」「富木入道殿御返事」「富城入道殿御返事」「鼠入鹿事」「八宗違目鈔」「法華行者値難事」「忘持経事」「真間釈迦仏御供養逐状」「問注得意鈔」の項、『日蓮辞典』「忘持経」の項》
(補記:岡元錬城)

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