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久遠実成

くおんじつじょう #347

久遠実成

くおんじつじょう

法華経本門如来寿量品第一六に説かれた法門で、釈尊が五百塵点劫という久遠の昔に成仏した三身具足であると説き顕したこと。
爾前迹門の諸経では、釈尊はインドの仏陀伽耶の菩提樹下で初めて成道した始成正覚の仏とされるが、本門寿量品に来って「我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と説かれ、実には五百億塵点劫の久遠の過去世に成仏し、それ以来常に裟婆世界にあって人々を教化してきたと、釈尊が自己を開迹顕本された。
これを久遠実成といい、また久遠本仏・久成の仏・本門の釈尊・寿量品のともいう。
日蓮聖人は法華経の教説の特質を「此に予愚見をもて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其相違多しといえども、先つ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏久遠実成なるべし」(『開目抄』定五四二頁)と述べて、迹門所顕の二乗作仏と本門所顕の久遠実成とを法華経における「二箇の大事」と称され、また「記小・久成」とも表記されている。
しかし聖人は迹門の二乗作仏も本門の開迹顕本によって根拠づけられるとされている。 ち『開目抄』に「迹門方便品一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱れたり、しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず。 (略)本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。 四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。 爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界因果をとき顕はす。 此れ本因本果の法門なり」(定五五二頁)と述べて、迹門の仏性論は本門の仏身論により根拠づけられるもので、法華一経は仏の慈悲による救済を説いたものとされるのである。
この本門久成の釈尊について、天台大師智顗は『法華文句』に「秘密とは、一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密と為す」と、三身具足の仏と釈し、更にその中から「此の品の詮量は通じて三身を明かす、若し別意に従はば正しく報身に在り」と報身正意を説いている。
日蓮聖人も「雙林最後の大般涅槃経四十巻・其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」(定五五三頁)と説き、「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏也」(定七一二頁)と説いて、法華経の久遠実成と『大日経』等の諸大乗経に説く無始無終とは異なることを力説されるのである。
大日如来は法身の無始無終であり、法身は報身の所証の理であるから、法身の無始無終は伽耶始成を破することは出来ない。 生身釈尊の実成が顕本されて初めて伽耶始成が破されるのであり、伽耶始成が破されれば、本因本果の法門が成立して、我等衆生も常住界に摂取されることになる、と説かれる。 この本門寿量品の久成釈尊は本有常住にして三身具足の無始無終である。
そして経文に「如来秘密神通之力」とあるのは、このの妙体妙用を顕したものである。
また「是の中間に於て我れ燃灯仏等と説き」「処々に自ら名字の不同・年紀の大小を説き」「或は己身を説き、或は他身を説き」(六或示現)等といい、更に宝塔品に「釈迦牟尼仏の所分の身」とあるところから、聖人は「此過去常顕わるる時、諸仏皆釈尊の分身なり。(略)諸仏釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず」(定五七六-八頁)といい、「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満のなり。 大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり。 華厳経の十方台上の毘盧遮那、大日経金剛頂経の両界の大日如来は宝塔品の多宝如来の左右の脇士也。 此多宝寿量品の教主釈尊の所従也」(定八一二頁)といって、久遠実成の釈尊を諸仏を統一する本仏と定めたのである。
更に「我れ常に此の裟婆世界に在って説法化す」「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして」とあるところから、聖人は「今爾前迹門にして十方を浄土と号して、此土を穢土ととかれしを打かへして、此土は本土となり、十方の浄土は垂迹の穢土となる」(定五七六頁)と本土観を立てられたのである。
かように寿量品において、伽耶始成の釈尊の当体に即して久遠の本仏が顕示され、在他の三世十方の諸仏を悉くその本仏の垂迹示現であるとして根本の一仏に帰せしめ、その本仏の三世常住不滅を説示したのである。
そしての久遠とその衆生教化の力用を説き、久遠の仏は衆生情に応じて種々に身を現じて化されるというのである。
更には「毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就仏身」と久遠の大慈大悲の願を顕示されていることから、聖人は「此土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子也」(定八一二頁)と述べて、衆生は久遠の仏の愛子として、久遠本仏への帰命の姿に自己の本質が見出されることを示されている。
そして日蓮聖人は、この法華経の教主久遠実成の釈尊を本師と仰がれ、本尊と奠め、浄土教の弥陀・真言の大日如来・華厳の毘盧舎那等は「此れ皆本尊に迷へり。 (略)寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同。 不知恩の者なり」(定五七八頁)と、諸宗本尊の非を破折されている。
なお源信の『正修観記』、覚運の『念仏宝号』、親鸞の『浄土和讃』等に、弥陀を久遠実成の弥陀と説くのを見るが、これらは法華経寿量品の久遠実成法門を借用しての説である。
《『遺文辞典』教学篇「久遠実成」の項、『日蓮辞典』「久遠実成」の項》

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