釈尊
釈尊
しゃくそん
釈迦牟尼世尊の略で釈迦牟尼仏のこと。
釈迦牟尼仏は原名シャーキャムニ・ブッダŚākya-muni Buddha仏教の教祖。
釈迦文尼・釈迦文とも音訳し、略して釈迦・釈尊ともいう。
また意訳して能仁・能忍ともいう。
釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意味、仏は仏陀の略で真理を覚った者、覚者の意味。
即ち釈迦族出身の聖者のこと。
姓は瞿曇ゴータマGautama太子名をシッダールタ悉達多Siddhārtha(目的を達成する意)というところから瞿曇沙門、悉達太子ともいう。
日種とは、インドの王族に日種、月種との両種があり、釈迦族は日種に属したから、日種ともいわれるが、日蓮聖人は『撰時抄』『報恩抄』で「摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給。
かるがゆへに仏のわらわなをば日種という」(定一〇四五頁)とて、日種を釈尊の童名と見た。
先祖は甘蔗王かんしよおう。
師子頬王(ししきようおう)の時に至って浄飯・白飯・斛飯・甘露飯の四男と甘露の一女を設けたが、浄飯王の一子がシッダールタ、斛飯王の長子がデーバダッタ(提婆達多)、第二子がアーナンダ(阿難)である。
その居城はカピラ城で、現在のネパール国タライ地方のティラウラコット付近である。
国土の大きさはほぼ千葉県ぐらい。
西北の強大な隣国コーサラ(舎衛城)の属国であった。
浄飯王は隣国の親族たるクル国王善覚の娘摩耶と結婚し、夫人は出産のため帰国する途中、ルンビニー園にて釈尊を生む。
誕生の時四方に七歩あるいて、右手は天、左手は地を指して「天上天下唯我独尊」と述べ給うたことは有名である。
夫人は出産後七日目に死去され、夫人の妹の摩訶波闍波提(憍曇弥ともいう)が養育した。
この継母は難陀を生んだ。
長じて従妹ヤソーダラ(耶輸陀羅)を提婆達多と争い、勝利を収めて結婚し、一子ラーフラ(羅睺羅)をもうけた。
耶輸陀羅は釈尊成道後第五年に摩訶波闍波提および五〇〇の釈女と共に出家した。
一日、太子は城の四門から郊外に出遊して老人、病人、死者、沙門を見て出家を決意し、十九歳(一説では二九歳)の十二月、従者チャンダカを伴い、白馬カンタカに乗って夜半ひそかに城門を出た。
太子の服を捨てて沙門となり、生死解脱の道を求めてアーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタなどの賢者に教えを受けたが満足できず、尼連禅河のほとりの象頭山に入って六年間の苦行生活を送った。
浄飯王が太子の身を案じて遣わした憍陳如等の五人もこの時に加わって苦行を共にした。
その結果は、いたずらに心身の衰弱だけがあって遂に解脱を得ることができなかったので、これを中止し、尼連禅河に沐浴して身の垢を浄め、村の娘スジャータが捧げた乳糜(牛乳で炊いた粥)によって気力体力を回復した。
五人はこれを見て堕落となし、太子を捨てて西方のパーラナシー(波羅奈城)の鹿野園に去った。
太子は独りガヤー(伽耶城)の近くのアシヴァッタ樹(畢鉢羅樹)の下に行き、吉祥草を敷いて坐し、静観を凝らして一二月八日の未明に大悟した。
時に三〇歳(一説では三五歳)。
その縁によりアシヴァッタ樹は菩提樹と呼ばれた。
成道後三七日の間、釈尊は樹下で解脱の楽を自受されたが、この時の心境を菩薩達に説かしめたのが『華厳経』である。
次いで衆生に対して自悟の法を説き示すべきや否やを思惟されたが、梵天の勧請を受けて説示することを決意し、まず苦行を共にした五人に示すために鹿野園に趣き、四諦・八正道を説き、愛欲と苦行との二辺を離れて中道を行ずべきことを示されたという。
これが『阿含経』であり、仏の初転法輪である。
更に釈尊は尼連禅河付近のウルヴェーラー村に入って優楼頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉の三兄弟およびその弟子一〇〇〇人を教化し、王舎城に入ってマガダ国王ビンビサーラの帰依を受け、迦蘭陀長者が竹林園を献じたので、王はここに精舎を建てて釈尊を招いた。
これを竹林精舎という。
ここで説法中、舎利弗・目連およびその弟子二五〇人が入信したので、仏弟子は総じて一二五〇人となった。
次いで父王の招きによりカピラ城に帰省し、王家の後嗣の難陀を始め一族の羅睺羅・阿兔楼駄・阿難・提婆達多等が出家した。
王舎城に還帰した時、たまたま王舎城に来遊中の舎衛城の長者スダッタの帰依を受け、舎衛城の南に祇園精舎を建立して寄進し、招きに応じて舎衛城に赴き、コーサラ国王パセーナディ(波斯匿)を教化した。
のちカピラ城とクル城との間に起った水利論争を調停するため、再び帰省して父王の崩去に遭い、その死を看取られた。
義母の摩訶波闍波提や妃の耶輸陀羅が出家したのはこの時である。
その後も釈尊は諸処に遊行し、説法して貴賤男女を教化されたが、詳細にその行迹を伝える記録はない。
ただ主として王舎城の竹林精舎、舎衛城の祇園精舎を本拠として中インド地方を中心に布教された模様である。
五〇年にわたる釈迦の説法は、実際に阿含部の中のごく限られたものであったが、のちに増広された大乗仏教経典も釈迦の説法を伝えたものとされ、仏教経典は八万宝蔵を数えるに至った。
その中から代表的なものを選び出して釈尊の説法に次第順序を立てたのが、智顗の五時説である。
なお日蓮聖人は五時の年限について『一代聖教大意』の五時の項に「華厳経は三七日の間の説、(略)法華経八箇年と申す事は、涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年の文の間を勘うれば八箇年也」(定六五頁)というが、この種の説法年限は現代仏教学の立場からは首肯されない。
しかし五時を釈迦一代の説法とする見方を改めて、仏教教理の発展の順序と見るとき、現代でも納得できることになる。
日蓮聖人は釈尊の一代の説法を、二乗を法華経に誘引するための方便であると見、前権(方便)後実(法華)が三世諸仏の説法の儀式であると見た。
その代表的な情趣豊かな表現が『開目抄』の中にあるので一見されたい。
釈尊は最期の年、ヴェーサーリー近郊の竹林で阿難と安居を共にしたとき病を感じたが、痛苦を押して香塔に至り、諸比丘を集めて三カ月後に涅槃すると宣し、パーヴァー城で鍛治屋のチュンダが供養した栴檀樹茸に中毒した。
病める釈尊は拘孫河で最後の沐浴をし、クシナーラ城のマツラー族所有の沙羅双樹の間に頭を北に向け、右脇を下に、足の上に足を重ねて臥し、夜半、弟子たちに最後の教誡を垂れてのち静かに入滅された。
時に人天は慟哭し、双樹は白鶴のように変色したので、ここを鶴林ともいう。
遺骸はマツラー族の廟所である天冠廟に安置され七日供養ののち火葬に付された。
参会したカピラ・ヴェーサーリー・マガダらの八カ国の使節たちの間で遺骨分配の争いが起きたが、ドーナ婆羅門の調停によって舎利は八分され、ドーナは舎利瓶を、遅参したピッパラ族は灰を得て、それぞれ塔を建てたので十塔が出現した。
釈尊の教法は滅後四月目に王舎城の七葉窟で大迦葉を中心に結集され、阿難は経を、優波離は律をそれぞれ記憶に従って誦出し、並いる衆僧が校訂して、ここに経・律が制定された。
現在釈尊の教法は南方系のパーリ語聖典や北方の漢訳経典の中に伝えられている。
仏滅年代について、古くは衆聖点記説によって仏滅年を紀元前四八五年とし、最近では宇井伯寿の紀元前三八六年説、中村元の紀元前三八三年説があるが、日蓮聖人は鎌倉時代の通念に従って『周書異記』の説により、周の昭王二四年(紀元前一〇二四)四月八日を仏誕、周の穆王五二年(紀元前九四九)二月十五日を仏滅とし、自身の現時点を「仏滅後二千二百二十余年」あるいは「仏滅後二千二百三十余年」等と遺文や大曼荼羅の讃文に記した。
史上の釈尊の生涯のうち日蓮聖人が最も尊んだのは、釈尊が布教中に蒙った迫害およびその克服であって、法華経の行者の有資格者として聖人は第一に釈尊、次に智顗、最澄、それに自身を加えて三国四師と称した。
仏教教団が漸次勢力を得るにつれて外道婆羅門からの迫害が増し、釈尊をあるいは悪口罵詈し、あるいは讒訴したのであるが、特に提婆達多は釈尊の老齢化を理由に、仏教教団の譲与を迫って拒否され、このことを根に持って、マガダ国ビンビサーラ王の太子アジャータシャトル(阿闍世)を語って、汝は父王を殺して新王となれ、我は仏陀を害して新仏とならんと持ちかけ、遂に釈尊に九横の大難を加えたが、その時期は、『善見律毘婆沙』二に「阿闍世登位八年仏涅槃」とあるから、釈尊の七〇余歳のときの出来事であり、法華経に擬せられた説法の時期に当ることになり、興味深い。
法華経の教主は釈尊である。
釈尊は法師品第一〇までは声聞・縁覚の二乗および一切衆生に成仏の記別を与える始成正覚の仏であったが、見宝塔品第十一で全身舎利の多宝如来の七宝妙塔に入られ二仏並座されてのちは、次第にその本地身を顕わし、遂に如来寿量品第十六では迦耶始成を破して、生身に即して久遠実成の仏身を開顕される。
日蓮聖人は、勿論歴史上の釈尊の有り方を追体験し、釈尊の喜怒哀楽を自身のこととして味わったが、しかし久遠実成の仏を本仏として仰ぎ、大日・弥陀等の一切の仏は釈尊の分身であり、所変にすぎないと見て、本仏を本尊と仰ぎ、この仏の慈悲によって末代凡夫の成仏を決定した。
即ち『観心本尊抄』に説かれる自然譲与等はそれである。
《『日蓮聖人御遺文講義』三巻、渡辺宝陽「日蓮聖人の釈尊観」『日蓮教学の諸問題』、『遺文辞典』歴史篇「釈迦牟尼仏」の項、『日蓮辞典』「釈迦牟尼仏」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と釈迦牟尼仏」の項、『図説仏教語大辞典』「釈尊の家系」の項》
(渡辺宝陽)