成仏
成仏
じょうぶつ
仏に成ること、または仏に成ることを志して常に不退に努力する過程をいう。
仏とは梵語buddha仏陀の略で、覚者と訳する。
自覚覚他覚行円満の人をいう。
成仏は成道、得道、作仏、得阿耨多羅三親三菩提等ともいう。
成仏については仏教中種々の異説があり『天台四教儀』によると、小乗の菩薩は三祇百劫の間六度を修行して最後に八相成道の儀式に則って、菩提樹下に坐して三十四心断結成道とて、見惑・思惑を断尽して成仏する。
権大乗の菩薩は三大阿僧砥劫または動逾塵劫の間六度を修し、見惑、思惑、塵沙の煩悩を断尽し、無明をも幾分断じて成道する。
つまり歴劫修行を修して一切の煩悩を断じ尽さねば成道はあり得ない。
しかるに法華経は提婆品の竜女成仏の段に「忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて」とある如く、不断煩悩の即身成仏できると説く。
また爾前経には菩薩・凡夫の成仏往生はあるが、二乗は永く成仏できないと説くに対して、法華経は二乗作仏を認めるところに特徴がある。
二乗すら成仏が許されるとすれば、その他の一切衆生、女人も悪人も謗法の人すらも成仏できる道理であるから、女人・悪人の成仏は提婆品で、謗法の成仏は不軽品で説かれる。
天台大師智顗(五三八-五九七)は法華経のこの特徴を純円と規定した。
『法華玄義』の境妙によると、円教は無作四諦を説く。
無作四諦とは涅槃即生死(苦)・菩提即煩悩(集)・生死即涅槃(滅)・煩悩即菩提(道)の意である。
従って『摩訶止観』の章安序に有名な円頓章では「陰入皆如なれば苦として捨つべきなく、無明塵労即是菩提なれば集として断ずべきなく、辺邪皆中正なれば道として修すべきなく、生死即涅槃なれば滅として証すべきなし。苦なく集なし、故に世間なく、道なく滅なし、故に出世間なし。純一実相にして、実相の外更に別法なし」という。
つまり不断煩悩不出生死を円教意の至極とする。
諸悪の根源たる煩悩をこのように取扱った理由は、三諦円融・十界互具を教学の基本としたからである。
十界互具ならば地獄も仏界の性善を失わず、仏界も地獄の性悪を捨てない。
ただしこの一念三千の理を体得する実践修行では十境十乗の観法乃至四種三昧を修して観智を磨き、不可思議境を解しないならば菩提即煩悩となり、解すれば煩悩即菩提となる。
そして相即の度合に六段あって、理即から名字即・観行即・相似即・分竟即・究竟即の六即を昇進しなければならない。
その際、相似即までは修道、分真即以上を証道といい、成仏は証道を指す。
日本天台では開祖の伝教大師最澄(七六七-八二二)が『法華秀句』の「即身成仏化導勝八」で、中国天台宗の成仏論を即身成仏論として継承して以来、成仏論は即身成仏論として展開された。
それは成仏のための努力の質、重要性よりも、成仏の速疾性・日常性が志向された結果の所産である。
最澄の即身成仏論は初住成仏を基本とし、中国天台宗の考え方を一歩も出なかったため、弟子達はどこから先を成仏と見做し得るかの位階論を中心として教学的操作を施し、智證大師円珍(八一四-八九一)になると早くも名字即成仏論すら顕れるに至った(→そくしんじょうぶつ・即身成仏)。
一方、台密では大日如来の法身の普時普処性に着眼して、諸経各々の説時、一切時の音声を大日一仏の説法とし、諸経各々の説処、一切処を大日如来の説処と見て、やがて十界の一切は大日如来一仏に外ならないという本来一仏思想を五大院安然(八四一-九〇三-)が形成した。
この台密思想を全面的に受容したのが院政後期頃勃興した中古天台で、台密思想を法華本覚思想として展開することを基調として、仏陀論においては「無作三身」を立てて、本有不改の凡夫の姿そのままを仏の姿とし、日常の振舞がそのまま止観修行であるとして、修行の必要性を除去した。
かかる絶対肯定の思想は一面の意味はあるが、理論の世界を修行の場にまで拡大・充当したところに一大欠点がある。
鎌倉仏教はこの堕落的本覚思想にあきたりないと共に、末法思想に適応するために成立した。
法然は浄穢を相対して穢土を厭い、浄土を欣求して専修念仏を勧め、道元は只管打坐、専ら坐ることを勧めて修行否定の叡山仏教から離れた。
日蓮聖人もまた然り、末代の凡夫と超越的仏陀とを相対し、唱題・三業受持なくしては教主釈尊の救済に与ることはできないとした。
ただし唱題成仏については佐渡配流前と後との間に差異があり、佐前においては『守護国家論』には大文第六の第二に「但だ法華経の題目計りを唱へて三悪道を離るべき事を明さば」(定一二七頁)とて、但信無解の唱題の功徳を免脱三悪道とし、出離生死とは言わない。
『唱法華題目鈔』では巻頭に但信無解の唱題の功徳を問い、重々に問答して「させる解なけれども三悪道には堕つべからず候。六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか」(定一八八頁)といい、前書と同様である。
しかるに文永期に入ると、三年作の『法華題目鈔』に矢張初めに但信無解の唱題の功徳を問い「させる解なくとも、南無妙法蓮華経と唱るならば悪道をまぬがるべし」(定三九三頁)と答えるが、遂には「当世の女人は即身成仏こそかたからめ。往生極楽は法華経を憑まば疑なし」(定四〇四頁)という。
往生極楽は法然浄土教でいう念仏の功徳と同様であり、出離生死(六道)の功徳に当る。
佐後になると『本尊抄』に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」(定七一一頁)とて、ここに初めて即身成仏が許されることになる。
思うに佐前はまだ法門が熟し切れていなかつたとはいうものの、一方においては既に比叡山に本覚思想あり、巷では法然が称名念仏による極楽往生を確約していたのに、このように唱題の功徳を低く示したということは、一に日蓮聖人の宗教は中古天台とは永く袂を別つものであることを如実に示している。
二に宗勢拡張のためには、薬の効能書のように、唱題の功徳を高くして大いに宣伝しなければならない筈であるが、聖人はそれよりも自己の現在有している所信に即し、信徒の日常の実際に即した言説を地道に示すことを大切にされたのである。
また成仏の方法においても佐前から佐後への階梯がある。
佐後は『報恩抄』に「有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし」(定一二四八頁)、『上野殿御返事』に「今、末法に入りぬれば余経も法華経(の読誦)もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(定一四九二頁)とて、但信口唱が勧められるが、佐前の段階では『唱法華題目鈔』に「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず。其志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」(定二〇二頁)とて、力ある者には止観修行を勧め『法華題目鈔』には「南無妙法蓮華経と一日に六萬十萬千萬等と唱て、後に暇あらば時時は弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみなるやうに申給はんこそ、法華経を信ずる女人」(定四〇四頁)とて、暇の時の称念は許される気色が見え、『十章紗』には「真実に円の行に順して常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし、名は必ず体にいたる徳あり(略)諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり」(定四九〇頁)とて、出家は心には一念三千の観法、口には唱題を行ずべしと見える。
つまり佐前には有智者の観法、余行の兼修を許すむきもあったのが、佐後には専ら但信口唱のみに統一されたわけである。
唱題成仏の理由については、大別して二つある。
形益としては聖人自身がその生涯を賭けて、唱題すれば成仏することを現実に立証された。
声益としては妙法五字に法華経二十八品の力用が具わる、一切経の功徳を備える、一切諸仏菩薩の積功累徳を包含する等の説明もあるが、最終的な説明は一念三千を具足するということである。
一念三千は聖人が唱題を正行とする以前の法華経の修行である『摩訶止観』の十境十乗観法の、所証の境であり、智顗の終窮究竟の極説であるから、従って法華経の根本真理である。
この一念三千と妙法五字との関係性については、最も初期の遺文において夙に着目されたところであるが、その集大成は『観心本尊抄』(→によらいめつごごひやくさいしかんじんほんぞんしよう・如来滅後五五百歳始観心本尊抄)を待たねばならない。
最後の結びに「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(定七二〇頁)とあるのは、正しくその端的な表現である。
妙法五字の内に一念三千の珠を包むということを、詳しく説明されたのが本抄の第一能観題目段であって、『摩訶止観』中の一念三千の典拠を挙げることから始まって、重々に問答を重ね、第一八番の問の答えにおいて、先引の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」云云の三十三字段となるのである。
これぞ唱題成仏の原拠である。
「釈尊の因行果徳の二法」とは、我等凡夫の劣心に久成の釈尊が住したもう所以を問うことに対する答えであるから、直接には人界所具の仏界に当るが、更にその大事は一念に具される三千世間に当り、三千世間を凝縮してその肝心を取つた結果の法体である。
「我等此の五字を受持すれば」とは、三業受持でなければならぬ。
三業受持については『土籠御書』に「法華経を余人のよみ候は、口ばかり、ことばばかりはよめども、心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(定五〇九頁)とある文に最も明瞭である。
身業とは色読ともいわれ、法華経の一々文々を我が身に体験し、経文の現実性、真実を実感する面であり、口業は正行には唱題、助行には一部読誦、意業は強盛の信心である。
そして身業も口業も意業から生れ出るものであるから、信心は唱題成仏の第一の要件である。
『四信五品鈔』に「仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧も又堪へざれば、信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位也」(定一二九六頁)とあるのがそれで、末代初心の行者の成仏の直因は信の一字にあるという。
『摩訶止観』の慧解為先の定学は、今、信心為本の唱題となつたのである。
「名字即の位也」とは、名字即は六即の第二、聞思修三恵のうちでは聞法の段階である。
聞法随喜・聞法信受すれば、そこを成仏の位とする。
唱題の勧めを聞く、そして信受する、ここが成仏の第一段階であり、次後は聞法が深まれば、次第に成仏の様相が増して行くのである。
《『遺文辞典』教学篇「成仏」の項、『広説仏教語大辞典』「成佛」の項、『日蓮辞典』『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』「成仏」の項、小松邦彰・花野充道『日蓮の思想とその展開』(春秋社『シリーズ日蓮』二)》
(浅井円道)