摩訶止観
摩訶止観
まかしかん
一〇巻(上下分冊二〇巻)、隋天台智者大師(智顗・五三八-五九七)説、門人灌頂(五六一-六三二)記。
また「大止観」、「天台止観」とも称し、略して「止観」、「止」ともいう。
遺文に「円頓止観」(定一一六三、二二七三頁)とあるのは、湛然の『弘決』一ノ一に「此の一部は前後に三本あり、其の第一本は(略)第二本は(略)首めに並びに題して円頓と為せるは是なり(略)今の所承は即ち第三本なり」とあり、つまり摩訶止観の異本である。
著作年については通序に「大隋開皇十四年(五九四)四月二六日より荊州玉泉寺に於て一夏に敷揚し、二時に慈霔す」と。
時に智顗五七歳、灌頂三四歳。
その聴記を再三修治して完成したのが現行本である。
『正蔵』四六巻、『仏教大系』所収。
『法華玄義』『法華文句』と共に天台三大部の一。
玄義・文句は経の題目、経の文々句々を解説して行者に妙解を得させ、止観は前に得た妙解を妙行に移して、観心修行の方法を説く。
智顗が南岳慧思に相承した止観に漸次・不定・円頓の三種があり、漸次止観は『次第禅門』一〇巻、不定止観は『六妙門』一巻、円頓止観は『摩訶止観』で説く。
初めに灌頂の長文の序文があり「法門浩妙なり、天真独朗とやせん、藍よりして而も青しとやせん」、金口相承・今師相承、「円頓者初縁実相」の円頓章などの有名な語句はここにある。
次に正説分に入って、最初に「今当に章を開きて十と為すべし。一に大意、二に釈名、三に体相、四に摂法、五に偏円、六に方便、七に正観、八に果報、九に起教、十に旨帰なり」と十章の組織を示す。
これを十広という。
第一大意章は発大心・修大行・感大果・裂大網・帰大処の五項に分かれ、これを五略という。
五略は十広の大意を略説するところであり、五略十広を本書の内容とする。
図示すれば次の如し。
(五略)
┌序分 ┌一発大心
│ ┌一大意┤二修大行 (十乗)
│ │ │三感大果 ┌一観不思議境
│ │ │四裂大網 │二起慈悲心
│ │ └五帰大処 │三善巧安心
│ │二釈名 (十境) │四破法徧
│ │三顕体┌一陰入界境┤五識通塞
└正説┤四摂法│二煩悩境 │六修道品
│五偏円│三病患境 │七対治助開
│六方便│四業相境 │八知次位
│七正修┤五魔事境 │九能安忍
│八果報│六禅定境 └十無法愛
│九起教│七諸見境
└十旨帰│八増慢境
│九二乗境
└十菩薩境
五略の初めの発大心は発心が正しくなければ宝渚に至るに由なしとて、その邪正を選んで十非心を斥け、四諦・四弘・六即の三種にかけて是心を明かにする。
二の修大行は一切の仏道修行を常行・常坐・半行半坐・非行非坐の四種に収め尽して、四種三昧を立てる。
三の感大果は因行を修して得られた果報で、これを五十二位では初住、六即では分真即とする。
止観は第七正修章の八増慢境以下を説かないが、第八果報章の欠落はこれによって補われる。
四の裂大網とは既に得果し終って、次に化他に赴き、法界衆生の疑網を裂除する場面である。
第九起教章の欠はこれによって補われる。
最後の帰大処とは自行化他を完うすれば能化所化は大涅槃の大処に帰することを説く。
第十旨帰章の欠をここで補う。
十広の第二釈名章は止観の名義を釈するところで、相待(三止三観)と絶待(不可思議)との両止観を明かし、第三顕体章は教相(理を明かす、次第不次第)・眼智(入理の門、三眼三智)・境界(三諦)・得失(思議不思議)の四科に分けて止観の体相を明かす。
その要は止も観も体は不異にして法性の寂照の二用であるとする。
第四摂法章は一切法を理・惑・智・行・位・教の六科に分けて一切法門は皆この止観に収まることを明かす。
第五偏円章は止観中に収められた一切法門を大小・半満・偏円・漸頓・権実の五科に分けて判じ、今の止観は法華の行であるから、前四時・前三教の偏行に対し純円独妙の止観であると主張する。
第六方便章は前章で独妙の止観を選取したので次には正しく観を修するのであるが、ここでは正修に入るに当っての方便準備を述べる。
正修章の初めに「前六章は修多羅に依って以て妙解を開く」とて本章までを妙解の部とするが、これは智顗の生活態度、平素の用心を説いたもので、正修と表裏して妙行を説く所でもある。
方便準備に五科あり、具五縁(特戒・衣食・閑居・息諸縁務・近善知識)・呵五欲(色声香味触)・棄五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑)・調五事(食・眠・身・息・心)・行五法(欲・精進・念・巧慧・一心)の五で、各々にまた五があるから二十五方便という。
第七正修章は正説中の正説にして、十境十乗の観法を示す。
十境の初めの陰入界境とは現前の対境たる五陰(色受想行識)・十二入(六外処・六内処)・十八界(六根六境六識)、これも広いので界入を去って五陰を取り、更に四陰を去って識陰、つまり手近かな自己の現前刹那の妄心(日常飲みたい食いたい着たいと思う心)を取り、これを所観の境としてこの心に百界千如三千世間を具して欠減なく、本来自爾として即空即仮即中なりと観ずることを目的とする。
陰入界境は行人に常に現前するから、必ずそれを観境としなければならないが、第二境以下は必ずしも常に生起するものでないから、生起した時の観境とするのである。
さて、もし陰入界境を観ずる中途にて煩悩が撃発されたときは、また取ってこれを三千三諦の妙境と観取し、根治するのを煩悩境を明かす意とする。
あるいはまた病患を起した時もまた同じ。
以下、業相・魔事・禅定・諸見・増慢・二乗・菩薩の七境についても同じである。
宿習の相違によりその所発にも万差があるが、十境を以て網羅することができる。
次にこの十境を観ずる能観の行相に十種あり、それを十乗、つぶさには十法成乗といい、十境の一々について十乗観法が示される。
成乗の名は譬喩品の大車の喩に準じて立てられ、行者がこの法に乗れば能く観を成就して速やかに果に至る故である。
『法華玄義』『大本四教義』等には蔵通別円の四教の十乗観を説き、その優劣を対比しているが、今の十乗観法は円教のものである。
十乗の第(一)の観不思議境とは不思議境を観ずる行法であって、十乗観法の中で最も重要、かつ他の九乗観の観体ともいわれ、白牛の車体に当る。
不思議境とは一念三千である。
(二)の起慈悲心とは、上根は観不思議境の一法のみで止観を成就し得るが、下根は成就し得ないので、更に改めて四弘誓願の化他の菩提心を喚起して成観を助ける。
(三)の善巧安心は心を法性に置き、無明即法性の安心を決定する行である。
(四)の破法徧は十乗の解説中最も長く、破法の手順を広く懇切に説くが、要は一切の法に対する執着を円教の無生門によって破して安心の成就を助けるにある。
(五)の識通塞は智に随って理に達し、能く仏界に悟入する通と、情に盲従して理を失う塞とを吟味する。
(六)の修道品は三十七科の道品を適切に応用して一心三観を現成することである。
(七)の対治助開は、とくに鈍根にして障重の者は更に六波羅蜜の事行を修して障道を除き悟道の開悟を助ける。
(八)の知次位は上の七種の観法を修行し、今さらに自己の現在の行位を正しく認識して、増上慢や卑下慢を防ぐ。
六即の行位を示すが、中心は五品弟子位の随喜品に属する五悔にある。
(九)の能安忍は、上来の八法を行じて六根清浄を得たとき、内外の悪縁の誘惑を拒み、心を節制安忍するという観法である。
内賊とは煩悩・業・禅定・諸見・慢心等、外賊とは名利等である。
(一〇)の無法愛とは、上来九法を行じて得た相似の凡位に愛着し停止する(法愛)ことなく、進んで聖位を志すことをいう。
第一大意章で説かれる四種三昧と第七正修章で説かれる十境十乗観法との同異は、十境十乗観法は意の止観であるが、四種三昧は意の止観に身の開遮(行と坐)と口の説黙(口唱・読経)を加えて意の止観を有相化しており、意の止観は運想として運用されるが、現今の懺法等においてはこれも省略されている。
日本の伝教大師は止観業の学生に専ら四種三昧を勧め、止観一部は十二年間の籠山中聞慧思慧為正の前六年の間に読誦するのみとした。
中古天台は更に序分の中の「天真独朗とやせん」から採語して天真独朗止観なるものを称え、凡夫の日常の振舞がそのまま止観の実修であるとして、止観修行を排したがこれは智顗自身の与り知らぬところであり、序の円頓章や釈名章の絶待止観における止観の行証を超えた絶待性を理行混同した為の誤解が生み出したものと思われる。
全く伝統を無視したこの種の中古天台観心主義は鎌倉初期には早くも勃興し始めていたと見られ、末法到来の危機意識に根ざした祖師等は、この中古天台本覚思想にあき足りないで叡山を去り、各々の所信を樹立していったのであるが、その中で日蓮聖人の行き方は、六祖湛然も指摘したように『摩訶止観』の終窮究竟の極説は一念三千であると決して、これを成就するための末代観心として三業受持・但信口唱を勧めたのである。
《福田堯穎『天台学概論』、安藤俊雄『天台学』、関口真大『天台止観の研究』、望月歓厚『日蓮教学の研究』、中国仏教研究会編『摩訶止観引用典拠総覧』、『遺文辞典』歴史篇「摩訶止観」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「摩訶止観」の項》
(浅井円道)
図版