妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

あく #2193

あく

(1)aḥは悉曇字の四十二字門、五十字門の一つ。阿字の五転(阿・阿長・暗・長)の第四で入涅槃を表す。 『大日経疏』一四。
(2)・悪・無記の三の一。 『摩訶止観』二下所説の非行非坐三昧(四種三昧の第四)では三性に歴て止観を行住坐臥に修することを勧めるが、悪については、例えば「二乗はなりと雖も、但だ能く自度なるは人の相に非」ざるが如く、「夫れ悪は定まることなし」、つまり悪は相対概念であって、これは、これはと一概に定めることはできぬが、今いうところのとは慳貪・犯戒・瞋恚・懈怠・飲酒等であり、一切の人類は皆過失あり、を離れることはできぬから、を観察することは必要不可欠である。 を観察して「の中に道ある」ことを見極め、「貪欲是道、恚癡亦如是」(『無行経』)、「行非道通達仏道」(『維摩経』)に達することが大切であるという。 これは台独特の相対種の円教概念の実践化である。
(3)日蓮聖人が説かれる悪にも世間的道徳的悪と出世間的悪とがあるが、結局は法華経に信順することが最高、違背することが最大であるとされる。 『開目抄』に「に付け悪につけ法華経をすつる、地獄なるべし」(定六〇一頁)といわれるのは、その意である。
悪の概念規定としては『曽谷二郎入道殿御報』に「人とは五戒・十乃至二百五十等也。 人とは殺生・偸盗乃至五逆・十悪等是れ也」(定一八七二頁)とあり、殺生・偸盗・妄語・邪婬・飲酒等にあけくれ、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧(これに相似の五逆あり、定二五四・三二一頁等)を犯すこと等を一応はとするが、最大のは法華誹謗である。
次に人と指名された人に、提婆達多、および彼と組んで釈尊を迫害し、父を殺した阿闍世王、九九九人の人の指を切って首飾とした鴦掘摩羅(定一〇六五頁)、廃仏の弗沙弥多羅王、会昌天子(定一一二三頁)、比叡山の法華信仰を真言信仰に改悪した慈覚大師(定一〇四〇頁)、聖人の法華弘通を邪魔した極楽良観(定一三二三頁)、東条景信(定一一三五頁)、また殺生を職とする武士(定一一六〇・一九一一頁)等がある。
しかし『四恩鈔』には自分を伊東に流罪に処して「昼夜十二時の法華経の持経者」たらしめた「此讒言の人、国主こそ我身には恩深き人にはをわしまし候らめ」(定二三七頁)、『開目抄』には「敵なければ我非をしらず」(定五八〇頁)、『種種御振舞御書』には「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦」(定九七三頁)と、悪を増善に回向されたことは、天台大師の悪に対する止観と共通し、また怨讐を超えた宗教的境地である。
次に悪に対する聖人の相対的価値判断は、「悪人を殺は罪あさし、善人を殺は罪ふかし」(定九二〇頁)のように、世間道徳上の善悪については善を勧め悪を懲したことはいうまでもないが、仏法を信じることを仏法不信に対して善と規定した場合、「天を地とい、東を西とい、火を水とをしへ(略)なんど申人々を信て候はん人々は、ならわざらん悪人にははるかをとりてあしかりぬべし」(定一〇六六頁)、「日々に十悪を造る悪人よりも過重きは人也(略)此人々は人に似て人也」(定一三六七頁)等といわれる。
仏法を信じる善人よりも仏法をまだ信じていない悪人の方が罪が軽いとされる理由は、「当世は正像二千年すぎて末法に入て二百余年、見濁さかりにして、悪よりも善根にて多く悪道に堕べき刻也。 は愚痴の人もとしれば、したがわぬへんもあり(略)は但だと思ふほどに、小に付て大悪のをこるをしらず(略)善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕るなるべし」(定三二二頁)とは善悪の判断について世間一般の盲点となっている事柄を指摘したわけで、悪については誰でも悪と認知して行わないが、大善を破る小善(たとえば他仏他経の信仰)はであるから、と認知し難く、よりも一層重い大であると。
また「今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり(略)今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは、外は善根とこそ見ゆれども、内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり」(定一一二九頁)、「小を持て大を打奉り、権経を以て実経を失ふとがは、小還て大となる。 薬変じて毒となる」(定一三一三頁)、「今日本国の女人は必ず法華経にて仏になるべきを、たぼらかして一向に南無阿弥陀仏になしぬ。 ならざればすかされぬ(略)弥陀念仏の小善をもって法華経の大善を失ふ」(定一五四三頁)とは、他仏他経を信じるのは善であるが、法華の大善を失う因縁となれば還って大悪であるというもので、ここに人よりも人を歓迎した意趣が伺える。
ただし『智慧亡御書』に「大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて(略)一向善根をとどめ、大悪をもて八宗の智人とをもうものを、或はせめ」(定一一三〇頁)とある「大悪」は法華経の毒鼓折伏を指し、型破りの用例である。 このは強の意味である。
聖人には悪の熟語例は多いが、特に悪国についてみれば、『開目抄』では「末法摂受折伏あるべし。 所謂・破法の両あるべきゆへなり。 日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし」(定六〇六頁)とて、悪国では摂受、破法国では折伏を行ずべきであるが、今の日本国は破法の国であるとするに対して、『転重軽受法門』では「難なくして、王法に御帰依いみじくて法をひろめたる人も候。 これは世に国有り、法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる」(定五〇八頁)、『如説修行鈔』では「問云、如説修行の行者は現世安穏なるべし。 何が故ぞ三類の強敵盛んならんや。 答(略)今の世は闘諍堅固白法隠没なる上、悪国・悪王・悪臣・悪民のみ有て正法を背」(定七三二頁)とて、今の日本国を悪国と定め、悪国の故に折伏、悪の故に迫害ありとする。
一見矛盾するが、『開目抄』のとは仏法に未入信の「無智悪人」の国を意味し、「邪智謗法」のではない。 後二書のとは法華誹謗のを意味するから、趣旨は同じである。
《『』(『教思想』二)、『遺文辞典』歴史篇「悪」の項、『日蓮辞典』「善悪」の項、『岩波教辞典』「」の項

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