時
時
じ
五義の第三義。
『教機時国鈔』に「三に時とは、仏法を弘めん人は必ず時を知るべし(略)時を知らずして法を弘めば益無き上、還て悪道に堕する也」(定二四二頁)とあり、『撰時抄』にも「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(定一〇〇三頁)とて、時を習い知ることの大切さが示してある。
時を習うとは、教に示された正像末の三時における仏法の興廃を学習することであり、末法とは実大乗たる法華経、ないし法華経の本門の肝心たる南無妙法蓮華経をもって下種すべき時と習うのである。
従って時を知らぬとは『教機時国鈔』の知五義の段に「而るに日本国の当世の学者、或は法華経を抛ちて一向に称名念仏を行じ、或は小乗戒律を教へて叡山の大僧を蔑み、或は教外を立てて法華の正法を軽しむ。
此等は時に迷へる者歟」(定二四四頁)とて、実大乗の弘まるべき時運に権大乗を弘めることを迷時とし、また『開目抄』に「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす、安楽行品のごとし。
邪智謗法の者多き時は折伏を前とす。
常不軽品のごとし(略)設ひ山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずは、いかでか生死を離るべき」(定六〇六-七頁)とて、折伏下種を行ずべき時に山林に交わって一念三千の観を修するは、時を知らざることとして、像法過時の天台止観を棄てられる。
時を知らざる故の誤謬はなお重々に考えられねばならないであろう。
《『遺文辞典』教学篇「時」の項》