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遺文

いぶん #5001

遺文

いぶん

遺文とは死んだ人の書き遺した文章類を指すが、ここでは日蓮聖人の遺した文章類の総称。
聖人の文章類の呼称としては古くから御書の名が用いられてきた。
『日常目録』では、著作である『観心本尊抄』『法華取要抄』を「御自筆皮籠」に入るものとして記し、別に真蹟の「巻物分」「御消息分」の項を設け、更に写本『立正安国論』等が「御書箱」に入っていることを記している。 これによれば、あるいは写本遺文を御筆=真蹟と分けて「御書」と称したかに思えるが、永仁七年(一二九九)の「日常置文」では「聖人の御書ならびに六十巻以下聖教等、寺中より出すべからざる事」を定め置いていて、真蹟・写本の遺文を「御書」と総称している。
次いで正和三年(一三一四)の「日高置文」では「本尊・聖教」とあり、延文四年(一三五九)の「日祐置文」でも「本尊聖教」とある。 聖教の語に著作・消息=書状・図録・書写の書・抄出要文等を含めていたと考えられる。
一方、富士門流では「日代置状」―日興置文というべきか―に「大聖人御筆の大曼荼羅已下自筆の御書等」、「日代置状」に「大曼荼羅・御書以下重宝等」とあり、日道の『御伝土代』には「御書に云く」として『種種御振舞抄』の一節を引用。 更に『富士一跡門徒存知事』(日算応永二九年=一四二二書写)のなかに「聖人の御書の事」「諸方に聖人の御書を読むの事」とあり、『日興遺誡置文』(日我天文五年=一五三六書写)には「御抄いづれも偽書に擬し」「偽書を造りて御書と号し」とある。 『宗全』一巻「上聖部」に収める日昭の文保元年(一三一七)一一月一六日付の「譲与本尊聖教」(『宗全』は正本・写本の所在を記さず。 『日蓮宗宗学章疏目録』には正本池上本門寺と記す)には「先師御筆の御書撰時抄並びに安国論の奥書」という。
こうして聖人の遺した文章類を「御書」と称することは、かなり早くから行われていて、室町時代には御書の呼称は確定し、御書の集成が行われ、かつその目録が作成されていったことは中山門徒本成房日実の『当家宗旨名目』(寛正二年=一四六一頃)に「御書目録一冊これあり」と記されていることによっても明らかであり、身延久遠寺行学院日朝(明応九年=一五〇〇没)にも「御書目録日記之事 六老僧所記」とする目録があり、小湊誕生寺には永正九年(一五一二)備後公日祐の執筆になる日朝系の目録および別系統の目録二本が蔵されている。
この御書の集成および御書目録とは、いわゆる録内御書とその目録であって、録内御書収録以外についても『宗旨名目』に「録外の御書数を知らず」とあって、それらも録外御書と呼ばれていくようになるのである。 かくて遺文御書と称することは全日蓮団的なことであった。

遺文はまた「祖書」ともよばれてきたし、よばれてもいる。 この呼称を『日蓮宗宗学章疏目録』に掲げる書名によって探れば、早くは身延久遠寺五世日台に『祖書三大部見聞』があり、はるか降って京都要法寺広蔵院日辰の項下に「祖書注釈数部」とある。 次いで一如院日重に『(*)祖書師友抄』(正本・写本・刊本なし。 以下、書名の上に*を付してそれを示し、正本・写本・刊本のあるも、その年次・所在はとくに挙げない)『祖書後懐中抄』等がある。 『章疏目録』を往披し以下その若干を挙げれば次の通りである。
日広『(*)祖書新目録』、日慶『(*)祖書撮要』、日成『祖書注釈』、日長『祖書イロハ索引』、日通『祖書証議論』『(*)祖書目録』、日導『祖書綱要』、日寿『祖書綱要刪略』、日臨『祖書抜萃』、『祖書精随』、日麑(げい)『祖書編輯考』、『祖書考正義』、日明『新撰校正祖書』、日耀『祖書録外考文』、日騰『祖書拾遺』、『祖書校本』、『続祖書文集』、『新撰祖書編年目録』、『祖書攷異目録』、日英『祖書続集』、『祖書肝要集』、日輝『祖書略要』、『祖書玉の海』、『(*)祖書要文』、日『祖書要廸』。
以上、日台を除けば近世初頭の広蔵院日辰、一如院日重に始まり、幕末の優陀那日輝、長松日にいたるに、祖書の呼称が行われていたことを知るのである。

これに対して、あたかも幕末、慶応元年(一八六五)小川泰堂の『高祖遺文録』が校訂を終り、泰堂没一〇年後の明治一三年(一八八〇)刊行された。 これまでの御書・祖書・御妙判に代る遺文の呼称の登場である-なお、『章疏目録』に載せる唯一の例だが、通玄院日演(延宝六年=一六七八没)に『高祖遺書解』があったという-。 ただし遺文の呼称は『高祖遺文録』に始まるものではなく、例えば『祖書続集』における日英の付言にも「高祖遺文」とある。 次いで加藤文雅・稲田海素編、本間海解校訂による『日蓮聖人御遺文』が刊行され、その縮刷版が「縮遺」と略称され、本書が宗門内部と外部における日蓮聖人研究の基本的テキストとして依用されるにいたり、御遺文の呼称は広汎に定着するようになったといえよう。 もとより、いまなお御書・祖書・御妙判の呼称は用いられているが、現今では遺文の用例が多いといえよう。

更に遺文を「御妙判」と称したこともある。 その初見は未詳であるが、例えば本有院日相(宝暦六年=一七五六没)の『法華顕要抄』に「吾が祖は要法付嘱本門の導師にして、唯五字を弘めたまう。 その旨、処々の妙判に赫々たり」という。 判は教相判釈の意であるが、聖人のそれを記したものが遺文にほかならないから妙判・御妙判遺文の同義語となる。 これに類する用語としては、本化の所判(本迹対論用意抄)・祖判(本迹自鏡編巻下)・御書判(同巻上)・御抄判(本迹勝劣追加)・御判釈(本迹勝劣之事)・御評判(本迹勝劣追加)等がある。 いずれも聖人教相判釈を指し、その判釈の基準を明かしたものとして遺文に帰するのである。 こうして御書・祖書・御妙判等が遺文の呼称として用いられてきた。
今日においても、それらの呼称はなお用いられているが、より普及している呼称は遺文のそれであるといえよう。

遺文の伝存形態には真蹟・写本・刊本の三種があり、遺文はまた、その内容によって著作と書状・図録・写本・要文などに分けられる。
真蹟の現存最古のものは、嘉禎四年(一二三八)是聖房の名において書写された『授決円多羅義集唐決』(金沢文庫蔵)であり、これに次ぐのは建長三年(一二五一)書写の、無署名だが覚鑁の『五輪九字明秘密釈』(中山法華経寺蔵)。 書状の最古は法華経寺蔵『台肝要文集』の紙背に記され、建長六年(一二五四)と推定されている『富木殿御返』」である。 しかし、これには日蓮の自署はあるが、花押(かおう)はない。 次いで弘長二年(一二六三)と推定される『論談敵対御書』・文永元年(一二六四)の『南条兵衛七郎殿御書』があるが、前者は断簡、後者はその断片を残すのみである。
完全な真蹟書状は『安国論御勘由来』とよばれている「文永五年太歳戊辰四月五日付」の「法鑒御房」宛ての書状で、聖人の自署花押がある。 これは漢文体の書状だが、漢字平仮名交りのそれで完全なものは、文永六年(一二六九)のものと推定される『富木殿御消息』である。 著作では「土起大地震非時大風大飢饉大疫病大兵乱等種種災難知根源可加対治勘文」で、『災難対治抄』と通称されているものであるが、これには年次は記されていない。 文応元年(一二六〇)北条時頼に上呈した『立正安国論』が年次も確かだが、上呈本は現存せず、文永六年(一二六九)の書写本がある。
これら現存する遺文真蹟について、おおよその数字を『昭和定本日蓮聖人遺文』に拠って挙げれば次の通り。
著作・書状のうち完全に伝存するもの一一三点、断片の存在するもの八七点、図録の完全なもの二一点、断片のあるもの二九点、著作または書状の断簡三五七点、-ただし重複・連結するもの数点-、要文断片一四〇点、書写本二三点。 なお真蹟に準ずるものとして、明治八年(一八七五)に焼失した身延久遠寺の曽存本を挙げることができる。 真蹟についての記事の綿密な「日乾目録」や日乾による真蹟との対照本により、その所在と真蹟たることは明らかで、総数二五点を数える。
真蹟の影印は近代に入って行われたが、神保弁静編『日蓮聖人御真蹟』(大正二-三年=一九一三-四刊)二〇冊は画期的なもので、その後の真蹟研究に大きく寄与した。 その後、幾種類かの真蹟影印が行われたが、立正安国会片岡随喜発願による『日蓮大聖人御真蹟』四八巻二二冊が昭和三二年(一九五七)完成、この安国会蔵版を中心にして、富士大石寺所蔵真蹟を加えて、同五一-二年に刊行されたのが、法蔵館版『日蓮聖人真蹟集成』一〇巻で、今日における可能な限りの真蹟を集成していて、真蹟の鑽仰・研究の基本的なテキストたり得ている。
なお聖人真蹟は、古くは御筆(おふで)、御自筆ともよばれ、真筆と称することもあった。

写本遺本の伝存形態は、個別写本と集成セットされた遺文集の写本の二つである。 代的には前者が先行している。 『昭和定本日蓮聖人遺文』に掲げるところによれば、正篇四三四篇のうち五六篇の個別写本があり、その筆者は日興・日法・日澄・日高・日春・日源・日進・日尊・日目・日代・日親・日意らで、直弟・孫弟子がほとんどである。 わけても日興の写本は三九篇を占めていて圧倒的である。
後者の集成・セット化された遺文集の写本は、いわゆる録内御書録外御書に二大別される。 録内御書の蒐集と集成が先行し、これに次いで録外御書の蒐集・集成が行われた。 録内は一四八篇として固定したが、後者は文字通り録内御書外の蒐集・集成であるから、諸本その数を異にして、日朝本全一三一篇、刊本『他受用御書』の底本となったもの一〇八篇、本満寺本二〇三篇・三宝寺二三三篇・金川妙覚寺(1)一五〇篇、同(2)(残闕)一四六篇等であり、刊本録外御書にいたって二五巻二五九篇の集成となった。
これら録内・録外御書の蒐集と集成の跡を辿ることが、遺文編纂史にほかならないが、これについては録内御書録外御書の項を参看されたい。 刊本もまた近代以前においては、録内御書録外御書に分けて刊行されている。 これまたその項を往披されたい。

録内・録外ともに写本・刊本を問わず、収録遺文の配列がいかなる編集方針に基づいて行われたか解らない。 録内の場合『立正安国論』以下一論四抄の五大部その他の著作を前半に置くが、それに続く遺文の配列は不整であるとしかいえない。 こうした配列に対して、遺文の編念を企てる動きが近世に入って現れている。 いわゆる編年目録の作製である。
その初めは中山本行院一四世日奥の貞享三年(一六八六)作製の『御書新目録』。 録内御書の編年目録で日奥は録内収録一四八通のうち五通を除き、開合さらに一三通を加え、合わせて一五六通とした。 しかし文化一〇年(一八一三)書写の同目録(『昭和定本』第三巻所収)によれば一六九篇の書名を掲げている。
次いで鎌倉境妙庵に隠居していた境持院日通は、明和七年(一七七〇)『境妙庵御書目録』を編集した。 同目録は建長・康元の頃とする「主師親御書」以下弘安五年一〇月七日の「波木井抄」にいたるまでを編年して「已上三百六十四通」とするが、列挙する書名は三七二篇を数える。 録内・録外・他受用御書収録の遺文から成っていて、録内・録外の枠をとり払った編年目録である。
更に健(建とも)立日諦も安永八年(一七七九)編年体の『祖書目次』を刊行した。 『日蓮宗宗学章疏目録』の項下に、これを玄得との共著とするが、これは玄得の書いた文のなかに「同志日諦」とあるに基づいたと思われる。 本書はのちに英園院日英によって再訂されるが、それには「沙門健立編次」とあって、玄得の名を記していない。 日諦編とすべきであろう。 玄得の文には「凡有三百五十有五」と記すが、三五四篇で、なかに現行遺文に比定できないもの三篇を含む。 前記のように日諦編安永開板本を日英が再訂し、弘化三年(一八四六)山成某・阪田某の募縁によって改刻した。 『弘化改刻祖書目次』がそれだが、日英の校訂の内容については未詳である。 日英の再訂改刻に先立つ文化一一年(一八一四)智英院日明は『新撰祖書』一〇巻を一七年の歳月をかけて完成し、別に『新撰校正祖書目次』一巻を作成した。 ここに掲げる書名は、なかに『註法華経』や『御義口伝』その他を含むが、全三九三篇である。
一方、富士門流の便妙日満-のちの久遠院日騰は『新定祖書編年目録』を編集した。 『日蓮宗宗学章疏目録』では、これを保一三年(一八四二)のこととして明記するが、堀日亨は弘化二年以前と推定。 浅井要麟によれば『一代大意抄』から「御遷化記録」にいたる三五五篇を編年体に配列、その他一一通の年次不明のものは雑然と羅列されているという。
日騰はまた『新定祖書目録攷異』を著し、諸書の系年に対する批判と、正本の所在を明らかにした。 日騰には別に『本化文集目録』がある。 類聚体の遺文集で、著作と書状とに分け書状は宛所別に集めた。 編集年次は明らかではないが、保一三年以前であろうと推測されている。
近代における類聚体遺文集の代表的なものは、田中智学監修・長瀧智大・山川智応編の『類纂高祖遺文録』(大正三年=一九一四刊)で、主要・宗義・真蹟・信行・勧誡・教解・対判・附雑の八篇に分け、主要篇八、宗義篇一七、事蹟篇五九、信行篇二八、勧誡篇一七四、教解篇三六、対判篇三八、附雑篇二七の八篇に亘り、三八七篇を収め、他に真蹟断片および古写本等合して六篇を載せている。 付録に御消息文対告目録索引・五十音順発音仮名索引・録内対照目録・録外対照索引・遺文録対照索引・遺文録解題等、索引および解題を付したのが特色。
同一〇年には富士大石寺日応校閲・佐藤慈豊編『日蓮大聖人御書新集』が刊行された。 諫暁篇・顕正篇・養篇に分って編纂されている。
これより先、小川泰堂は先の日明の努力を多としながらも、この校訂を志し、諸寺所蔵の真蹟と対照して、三〇巻三八七篇を含む『高祖遺文録』を慶応元年(一八六五)完成したが、その刊行は明治一三年(一八八〇)のことであった。
更に加藤文雅は開宗六五〇年記念事業として遺文集編纂を発願、小川の『高祖遺文録』をもとに稲田海素に委嘱して諸寺の真蹟との対照をいっそう進め、続集を加え『日蓮聖人御遺文』と題して明治三七年刊行、更に大正九年の増版に当り、第二続集を追加した。
以後、縮刷遺文・縮遺・霊艮(りようごん)閣版の名をもって基本的遺文集として、宗門・学界に用いられてきたが、第二次世界大戦下において絶版に帰してしまった-昭和四二年写真製版により複刻された-。
こうした状態のなかで昭和二七年(一九五二)の開宗七〇〇年記念業の一環として、新たに遺文集の編纂・刊行が行われた。 立正大学日蓮教学研究所(当時、宗学研究所)による索引を含む全四巻の『昭和定本日蓮聖人遺文』がこれである。 同書は「縮刷遺文」を底本として、新発見の真蹟遺文で既刊遺文に漏れたもの及び『御義口伝』・『日向記』を加えた。 正篇四三四篇・続篇五五篇・図録三〇篇、断簡三五七点、目録一九点、これに『御義口伝』『日向記』を加え『縮刷遺文』に代り遺文の鑽仰、研究の基本的テキストになっている。右の各数値についてはその後の新発見等により増加していてそれらは『昭和定本』の増補版に随収録されている。
近代以降の刊行遺文については、丹治智義・松村寿巌共編「明治以降日蓮聖人研究文献目録」が掲げている。 往見されたい。
なお昭和の前半、内務省による遺文削除の要求が出され、遺文集もまた戦下における思想統制・抑圧の対象とされるにいたった。 これがいわゆる遺文削除である(「遺文削除」の項参照)。
浅井要麟「祖書編纂の史的概観」『日蓮聖人教学の研究』、山川智応『本化聖典解題提要』、鈴木一成『日蓮聖人遺文の文献学的研究』、丹治智義・松村寿巌共編「明治以降日蓮聖人研究文献目録」『日蓮聖人研究』、高木豊「諸本解説」『日蓮』日本思想大系一四、『図説日蓮聖人と法華の至宝』二巻「真蹟遺文」、渡邊寶陽『全篇解説日蓮聖人遺文』(佼成出版社)、小松邦彰・花野充道『日蓮の思想とその展開』(春秋社『シリーズ日蓮』二)、『遺文辞典』歴史篇「遺文」の項、『日蓮辞典』「遺文」の項》
(高木豊)

図版

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