北条時頼
北条時頼
ほうじょうときより
(一二二七-六三)
鎌倉幕府五代執権。
出家辞職後も実権を握り、最明寺入道とよばれ、日蓮聖人は文応元年(一二六〇)『立正安国論』を呈上した。
『立正安国論』を介在させての日蓮聖人と北条時頼との間柄、その接触の内実について具体的に記すには資料不足が否めないが、聖人の時頼観の一端、聖人の国主時頼への期待感を込めた印象記述がある。それは弘長三年一一月の時頼の死を受けての所感告知文といえるもの、『破良観等御書』の一節である。国主・国政への批判と受けとられもした『立正安国論』上進に対する時頼の対応を「人の主となる人は、さすが戒力といゐ、福田と申し、子細あるべきかとをもひて、左右なく失にもなされざりしかば」と評し、伊豆流罪に対しては「最明寺殿計りこそ、子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ」と赦免断行処置を評価、共に公平な処置対応を賛じていて、その人物の大器たるを認知している。右引に続く文「さりし程に、最明寺入道殿隠れさせ給いしかば、いかにも此事(立正安国論の主張の行末が)あしくなりなんず。いそぎかくるべき世なりとはをもひしかども…」(以上、定一二八六頁)は期待の喪失への悲哀を語るもので、聖人の時頼認識の率直な告知といえる。
《川添昭二『日蓮とその時代』、『遺文辞典』歴史篇「最明寺入道」の項、『日蓮辞典』「北条時頼」の項、『国史大辞典』一二巻「北条時頼」「北条氏(執権)」の項、貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』「最明寺」の項、『岩波仏教辞典』「最明寺」の項》