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鎌倉

かまくら #5057

鎌倉

かまくら

神奈川県湘南地方の相模湾に面した市。
一二世紀末(一一九二)、源頼朝が幕府を開いてから約一五〇年、武政治を行った鎌倉幕府の所在地。
日蓮聖人は政治の中心であった鎌倉に修学し、立宗の後はこの地を中心に弘通した。
鎌倉の地名は古く、奈良時代の天平七年(七三五)の「相模国封戸祖交易帳」に記され、鎌倉郷は戸数三〇、田一三一五町一〇九歩とある。 既にささやかながら開かれた関東の一郷をなしていた。
鎌倉が重要な地位を占めるようになったのは、源氏とのつながりにおいてである。
源頼義・義は、前九年の役といわれる康平五年(一〇六二)に陸奥、阿部貞任(あべのさだとう)の乱を平定した。
その翌年、頼義は石清水八宮を勧請して鎌倉郷由比に社殿を造営した。 頼朝によって現在の鶴岡に遷されたのがそれである。
から四代目の義朝は、先祖から伝領した鎌倉の館(亀ケ谷)に住んでいた(養元年=一一四四)。 こうした縁によって、治承四年(一一八〇)の挙兵で石橋山の合戦に敗れ、房総半島に渡った頼朝は、そこから多くの豪族・郷党を従えて、その年の一〇月鎌倉に入り館を構えるようになった。
やがて宿敵平氏を討ち、覇をとなえるにおよび、幕府を鎌倉に置いた。
頼朝にとって東鎌倉は、代々源氏ゆかりの地というほかに、地形的に三方山に囲まれ、一方は海に面した要害の地でもあった。
鎌倉幕府の源氏は頼朝・頼家・実朝の三代で滅び、代って北条氏が執権となり幕政を支配し、泰時・時頼の全盛期を迎え、その後次第に衰えるようになり、高時のとき元弘三年(一三三三)新田義貞の鎌倉攻めによって街は焦土と化し、ここに鎌倉幕府も滅亡した。
足利尊氏が幕府を開くにおよび、その子基氏をして関東管領(鎌倉御所)を設けさせ、四代にわたって関東と伊豆・甲斐の一〇ヵ国を管轄して権勢を張り、一時荒廃した鎌倉もまた盛んになった。
やがて、その実権も次第に執事上杉氏に移り、もなく上杉禅秀の乱や永享の乱(永享元年=一四二九)古河公方と上杉氏との争乱などの戦火で再び荒廃してしまった。
その後、暫くのは一寒村にすぎなくなってしまったが、今日では幕府跡、鶴岡八宮、鎌倉五山、大の高徳院など、往時の史跡、神社閣があり、京都・奈良とならび称される史都として知られている。
日蓮聖人は建長五年(一二五三)清澄山で立宗宣言の後、鎌倉松葉谷に草庵を構え、文永八年(一二七一)佐渡流罪までの二〇年間、鎌倉を本拠にした不惜身命伝道を行われた。 この地での法華色読折伏弘通の実践なくしては、法華経の行者日蓮への自覚はありえなかったといえるであろう。 そのの主な柄を略記すれば、建長六年の日昭・日朗の入門、正嘉元年(一二五七)鎌倉に大地震あり。
文応元年(一二六〇)『立正安国論』を前執権頼に上書す。
松葉谷の法難、弘長元年(一二六一)伊豆へ流罪、翌々年赦免、鎌倉に帰る。
文永二年この頃より大師講を営む。
門弟の帰入と教導、文永五年一一ヵ所に書状を送り、公場対決を迫る。
文永八年竜口法難・佐渡となる。
また文永一一年佐渡流罪を赦され鎌倉に帰られた聖人は、「幕府へ三度諫めて用いられなければ身をしりぞく」の先賢の言葉を守り身延に入った。
聖人の後を浜土の日昭、比企谷の日朗が中心となって教線を維持し、両師の門流が鎌倉を拠点に発展した。
聖人滅後ほどなく(弘安七-九年頃)、鎌倉幕府は諸寺・諸山に敵国降伏の祈祷を命じたことに端を発して団は危に瀕したが、辛うじて免れることを得た。
《『遺文辞典』歴史篇「鎌倉」の項、『国史大辞典』三巻「鎌倉」の項、『日蓮辞典』「源頼朝」の項》

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