妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

つみ #4486

つみ

とは、行ってはならないとされている行為を犯すことであるが、現代社会にあっては、一応法律的な、道徳的な宗教的ななどに大分することができる。
法律的なは反社会的な犯であって、その行為は所の対象となる。
には刑罰が伴い、法律で明確に決められた犯定型に当る行為が、犯の軽重を構成する。
すなわち、その行為が違法性を帯びたるもの、または確かに違法であることが第一条件である。
しかしまたドストエフスキーの「と罰」に見られるように、殺人行為という明らかな犯についても、社会正義的な立場をとる考え方もある。
「社会の不正を除き、新たな道徳を樹立するためには、これを行う選ばれた非凡人にとって、あらゆる手段が許され、法律をも超越する権利がある」と考え、貧しい大学生ラスコーリニコフは貪欲な質屋の老娑を殺害した。
しかしその犯行の直後、彼は内面的な苦痛にさいなまれ、法の下にせられなければならなかった。
この作品を通して我々は道徳的なそのものと法律的なものと、宗教的なものとの複雑な矛盾関係をみることができる。
道徳的なは、その判断の基準をの対立にみることができる。
封建制の代のと現代とは違うこともある。
報復行為としての仇討ちの如きは顕著な例である。
道徳的なは平俗に言って、社会生活の営みに於て「申訳けがない」という、ごく素朴な習俗的な反省の中に、一種のの意識があるといえるのである。
富める者が、貧しい人々に何か、その富める生活がの如くうしろめたい感じをもつならば、これも一種のの意識である。
富めるに育った青年が、無産労働運動に参加し、富みに反抗する例も多いが、これも一種の社会正義感による富の罪感からの脱出である。
また道徳的なは、その生活の在り方が当該社会の正常な規範、風習、伝統等に反する場合についても言えるのである。その行為が、違法である場合もあるが、意識としては、その行為の報いとして、その社会から種々の制裁を受けるのを厭う気持がある。
正常な愛の行為に対して不倫の愛情が対置されて、世―社会―の忌憚を受けるが如きは、法律の問題ではなく、人としての生き方の正邪が問われているのであって、その行為を引き起こした人間の内面的な思考や欲望が、として意識されるのである。

宗教的な罪は、キリストでは人類のの起源をアダムとイブの楽園追放に求め「原」の思想が古くから言われている。
しかし、今日では伝説的な由来よりも、原そのものは人がもつ自己中心的、自己拡張的な傲慢に対決する次元に、その思想を広げ解釈される傾向が強いといわれている。
に於ては人間の欲望そのものの中にの根源をおいている。
罪障等の言葉が使われているが、その罪は本来、法(ダルマ)にそむく行為、または戒律に反する行為で、ともに未来に苦を招く行をいい、それからの脱却が解脱(げだつ)なのである。
その基は無明(むみよう)より起来する欲望によるものであるとされている。
の内容としては五逆罪(害父母・害阿羅漢・出仏身血・破和合僧・誹謗正法)または十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・口・縞語・貪欲・瞋恚・邪見)などが説かれている。
これらのの根源は三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)などの煩悩であり、それからの救いは八正道を修することにある。
これらのの内容は道徳的な領域と完全に区別することは困難であるが、人間が先的に仏性を内面にそなえているので、その清浄な生命の展開を志求する場合においては、常に内面的な良心の世界で単に道徳的悪の次元から、より深い人間の能として、霊的な魂の発現がなければならない。
そこにおいて信仰・希望・愛・誠実・崇高というような心情のうごきが期待される。
日蓮聖人が「只、我等が心のによると見えたり」と言われたのは題目一元にからの救いを宣言されたのである。
遺文辞典』歴史篇「」の項、亀井勝一郎『我が精神の遍歴』》

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