罪障
罪障
ざいしょう
修行の障りとなる罪悪の意。
障礙ともいう。
人間が神仏の意に背き我意を行うことを罪と総称する。
身心の穢れまたは禍などの害悪や神仏に対する礼儀を怠った行為、あるいは天理人道に背き神仏の命令を犯した行為を罪というが、仏教においては自己内心の無明より生ずる煩悩によって行う業因業果を罪業という。
障は覆蔽の義で、人の精神を覆い迷乱せしめ物事の真相に通ずることを障げる意。
罪が善良な心の発動や悟りを求める縁をさまたげるので罪障と呼ぶ。
即ち、自己の精神的理想に照らし、反省懺悔をもって意識される深い宗教的内省である。
修法の上では罪障は霊障の意である。
即ち生霊、死霊、野狐、疫神、呪咀等の邪霊が人を悩乱させ、病気や災禍等の障りをもたらすことをいう。
邪霊が人の身心に憑いたために災禍が起るという憑依の信仰であり、修法はその邪霊を教化得道させ災厄を消滅させることを目的とする。
生霊とは生きている人の怨念が邪霊となって人にとりつき祟りをなすものであり、死霊とは死者の魂が怨霊となって人にとりつくことである。
野狐とは悪神の眷属たる野狐、鬼畜等の霊が人について惑乱させ悩ますことであり、疫神は人に災厄を与える悪神、病気をはやらす疫病神の類。
呪咀は人や物を激しく憎み、神仏に祈願してこれを害しようとする邪しまな祈りを意味する。
これらの邪霊の障りを取除くことを罪障消滅という。
『法華験家訓蒙』に陀羅尼呪の功徳十門を挙げてある中に、第二に「能滅罪障遠離鬼神門」として「鬼神天魔悉ク皆馳散シテ能ク侵害スルコトナシ」と述べてある。
修法においては現加持の際、罪障に応じてそれぞれの教化抄を読み聞かせ、また説諭して人を悩ますことの悪業であることを教化する。
即ち生霊に対しては『生霊教化抄』に「一念無明の妄想は三悪道の因にして差別は嗔恚を生ず。
平等大慧の慈海には怨念妄執の波浪無く罪福無主の慈天には悪性懺悔の恵日を挑(かか)ぐ。
一旦の意趣に由て無明煩悩独り熾んなるときんば諸天善神暫く擁護を控ゆるが故に悪鬼便りを得て其の身に入り怨念妄想を動転して病者を悩まし其の苦患をして転た熾盛ならしむ。
然りと雖も仏天の御加護無きが故に遂に還著於本人の本文に違はず自ら煩悩の焔に咽び紅蓮の氷に閉ぢられん」とあることをもとにして悪心を翻すよう教化し退散させる。
死霊に対しては『死霊教化抄』に「如何なる死霊悪霊たりとも一代の惣要たる法華経二八品の肝心を聴聞せば一日片時の間に其の験しを得せしめ給うべきものか。
当座一旦の恨を以て長く法華経受持の行人を悩まさんや。
早々怨念を翻して自らの成仏を取るべし」とある如く、教化し得道させ施餓鬼供養を行う。
野狐に対しては『鬼畜教化抄』に「汝等業障に因て鬼畜野干卑賤醜陋の身を受け三毒毎に熾盛にして三悪を離るる能はず。
偶ま少分の業通を感じて僅かに一分の自在を受くると雖も正念に住する能はざるが故に仏道を障っては罪根弥々重し。
業障を解脱するの道はその本源に還って生滅の法に達し入出自在にして実相を観ずるにあり。
寧ろ還滅門の身となって真浄の法味を嘗め、己の威光勢力を増して護法善神の一分と為る可きなり」とある如く、教化しあるいは退散させあるいは守護神として勧請する。
疫神についても『疫神教化抄』に「今形疫流行神の本地を案ずるに蓋し亦た法性亦名の如来なる可きか。
大慈悲の内証より末法澆季の衆生が悪業煩悩の深重なることを憐み暫く化益の為に疫神と現じ因縁業障の理を示し給うか。
疫神は須らく病者の邪熱を醒し本復せしむべし」とある如く、説諭し退散あるいは守護神勧請を行う。
呪咀については『呪咀教化抄』に「道理に叶はざる祈なるが故に遂には本人に還著して愈々還堕三途の色を増し輪廻亦た転た長からん。
先づ呪咀の怨念を翻して正念に復し即成の大果報を得せしめ給え。
邪横神等も頭破作七分の誓状を恐れなば速かに転我邪心して守護の善神となる可し」とある通り、教化し勧請或は退散させる。
退散の作法は、信者の両手に幣束を持たせ、読経中振動憑霊状態に入った時、教化抄を読み修法と共にその幣束を取って川に流させ、拭き取り用紙をもって体の邪気を拭き取る。
信者により憑霊脱魂の状態に入り難い者には、寄り加持と称して霊媒を使う。
これを寄り台、寄り増、巫女、神女等といい、罪障消滅のできた信仰心の強い女人がなる。
《『遺文辞典』教学篇「罪障」の項》