信仰
信仰
しんこう
仏法僧の三宝に対して、信伏随順し、渇仰の心を抱くことをいう。
一般に「信じて仰ぐこと」とされているが、仏教ではこの「信」について、各種の解釈が下されている。
『入阿毘達磨論』の巻上には「信は謂はく心をして境において澄浄ならしむ。
(乃至)これよく心の濁穢の法を除遺す」とあり、例えば濁った池の中へ清水の珠を入れておけば、濁穢の水が皆清らかな水となるように、信の珠を心の池の中へ入れることにより、心の諸の濁穢を除くことができると説いている。
また『成唯識論』第六によると、信のことを「不信を対治し、善を楽ふを業となす」と言っている。
三宝に帰依して不信を対治し、もって善・浄なることを願うことであるというのである。
『華厳経』の第六賢首菩薩品には「信は道の元、功徳の母となす。
一切の諸の善法を増長し、一切の諸の疑惑を除滅し、無上道を示現し開発す」とあり、信は仏道に入る根元であり、あらゆる功徳の母となるものであるとする。
故に法華経の提婆品には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざれば、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして、十方の仏前に生ぜん」とあり、更に譬喩品では智慧第一といわれた舎利弗尊者でさえもが「なおこの経においては、信をもって入ることを得たり。
況んや余の声聞をや。
その余の声聞も、仏の語を信ずるが故に、この経に随順す。
己れの智分に非ざればなり」と説かれているごとくである。
従って悟りを得る道は、信から始まり、渇仰の心なくしては達しえないものであることがわかる。
凡夫の智慧の遠く及ぶところではなくして、信がよく智慧に代って、悟りの境界へ入って行くことができるとするのである。
次に「渇仰」については、寿量品に衆生が仏の滅度を見て「広く舎利を供養し、ことごとく皆、恋慕を懐いて、渇仰の心を生ず」とあるように、仏に対して恋慕を懐き、渇仰の心を生ずることが、即ち信仰ということになるのである。
しかも、この信仰を持った衆生は「既に信伏し、質直にして、意柔軟に、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」という命がけの信仰として、堅固なものとなるのである。
日蓮聖人の信仰は、こうした法華経の中に説かれた強い信仰であって、文字通りに自らの身命を惜しまず、ひたすら本仏に対する帰依・渇仰の生涯であったのである。
ところが日蓮聖人が出られた当時の人々の信仰は、正法たる法華経の信仰からは遠く離れてしまって、仏が方便として説かれた経典を信じ、人生を否定し現実の国土を汚れた苦難の多い穢土であるとして否定し、西方十万億土の彼方にあるといわれる極楽へ往生しようという信仰に、目本国中津々浦々の人々がなびいてしまっていた。
現実を否定し、人生を否定する信仰からは「生きる」ことに対する力も意志も起ってこない。
そこで『立正安国論』を著作し、あやまった信仰を正しい信仰の道に入れるべく「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。
然ればすなわち三界は皆仏国なり。
仏国それ衰えんや。
十方は悉く宝土なり」(定二二六頁)と叫ばれたのである。
この「早く信仰の寸心を改めよ」と言われたのは、あやまった信仰から一刻も早く脱け出して、仏教の中心となる最も正しい信仰の道へ入らなくては、やがて日本の国は滅亡して、人々は地獄の苦を味わうことになるからであり、これを救うことが、日蓮聖人にとっては最大の目的であり、また仏の使いとしての使命であると考えられたのである。
「実乗の一善」とは、いうまでもなく、真実の大乗経典たる一乗妙法の最も勝れた善き教えを指しているのである。
即ち妙法を信仰することによって、我々の棲息している三界はみな仏国土となり、十方の世界は悉くが宝土となるのであるとする。
つまり日蓮聖人の信仰は、我々が死んでから、あの世といわれている西方の極楽へ往生して、そこで修行して、初めて仏に成るという信仰ではなく、この世で生き働きながら、法華経を信じて題目を受持することにより、三宝諸天善神の守護をえながら、みんなで一緒に救われて行こう、生きながらに仏に成って行こうとする信仰である。
この生きながら一生懸命に働きつつ仏になることを「即身成仏」というのである。
仏は譬喩品の中で「今、この三界は皆これわが有なり。
その中の衆生は、悉くこれ吾が子なり」と言っているごとく、我々は生れながらにして仏の子として在るわけである。
しかも寿量品では「何をもってか衆生をして、無上道に入り、速に仏身を成就することを得せしめんと」と説いているのである。
日蓮聖人はこの譬喩品の仏子であるという説と、寿量品の速成説とによって、即身成仏の教えを説かれ、三界仏国・十方宝土の信仰に立たれたのである。
かくして「国に衰微なく、土に破壊のない」状態を「娑婆即寂光」というのである。
妙法五字の光明に照らされて、すべての人々が仏子としての本来からの尊形を顕して、仏と仏が住する世界を「立正安国」とも、「本国土妙」とも称するのである。
「身はこれ安全にして、心はこれ禅定ならん」という国土が、そこに顕現されて来るのであるが、それはまさしく実乗の一善たる法華の信仰に根ざしていることが、不可欠の条件として、根本をなすのである。
その信仰の具体的な在り方としては、法華経を信じ、久遠実成の本仏釈尊を本尊として仰ぎ、法華経の眼目たる妙法五字七字の題目を唱えて行くこと、即ち身・口・意の三業に、本門の三大秘法を受持して行くことが、本化の最も大切な信仰のあり方であるとされているのである。
また『上野殿御消息』によると「日本国中の大小の諸神も、摠じて此法華経を強く信じまいらせて、余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり」(定一一二七頁)と、法華経を信仰する者には諸天の守護があることを述べている。
《上田本昌「日蓮聖人の信について」『仏教における信の問題』、『遺文辞典』教学篇「信仰」の項》