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寿量

じゅりょう #1857

寿量

じゅりょう

(1)菩薩を始め三界六道に至る生きとし生けるもの(有情)の持つ定った寿命をいう。
寿量と世界とにより長短一定していない。
法華経如来寿量品の「寿量」とは、如来の寿命とその功徳を量ることをいう。 台は『法華文句』に「寿量とは詮量なり、十方三世の二仏三仏本仏の功徳を詮量するなり。 今正しく本地三仏の功徳を詮量す、故に如来寿量品と言ふなり」と釈している。
なお他の大乗経典においても『金光明経』には「寿量品」が『華厳経』には「寿命品」が、それぞれ置かれている。

(2)法華経如来寿量品の略。
日蓮聖人遺文や教学史上には、品名の寿量を冠した多くの術語が見出される。
寿量顕本」とは寿量品に「我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と、伽耶始成を破して釈尊は三身即一身の如来であり、寿命が無量にして常住なることを説き、釈尊の久遠本地を開顕することをいう。 これを開迹顕本発迹顕本開近顕遠ともいう。 日蓮聖人は『開目抄』に「雙林最後の大般涅槃経四十巻・其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身報身の顕本はとかれず」(定五五三頁)と述べ、諸大乗経には法・報・応三身中の法身の無始無終のみを説いて報・応二身の久遠は説かれていないとした。 そして法華経本門にのみ円の三仏の本地―無始無終が説かれることによって、爾前諸経の諸仏に対して久遠実成釈尊の超勝が顕されたとしている。 聖人滅後、この顕本義について、行学院日朝、一妙院日導らの一致派教学では法身顕本為正を立て、八品派の慶林房日隆は報身顕本為正、日什門流合掌院日受、永昌院日鑑らは応身顕本為正をそれぞれ主張した。
寿量(品)の仏」とは、寿量品に開顕された唯一絶対の本仏釈尊をいう。 これを「久遠実成の釈尊」「久遠本仏」「本門の仏」「寿量本仏」「無始古」などとも呼ぶ。 『本尊抄』では小乗・権大乗・迹門の釈尊と区別して、末法の本尊を「寿量の仏」「本門寿量品の本尊並に四大菩薩」(定七一三頁)と説かれている。 また『開目抄』の本尊段にも「寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ、不知恩の者なり。 (略)寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり」(定五七八頁)と、寿量仏本尊義を述べられている。
寿量所顕」とは『本尊抄』に「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」(定七一六頁)「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」(定七一七頁)とあるように、寿量品文底の事一念三千の妙理を詮じ出したのが「妙法五字」であり、その出所が本門寿量品であるから、これを「寿量所顕の妙法」というのである。
寿量一品」とは『開目抄』に「汝但だ寿量の一品を見て」(定五五五頁)「寿量の一品の大切なるこれなり」(定五七六頁)との文に基づき、真の久遠開顕は寿量品に限られることをいう。 『観心本尊抄』に「寿量の法門は滅後の為に之を請ずるなり」(定七一六頁)と述べ、この寿量品の久遠開顕の説法は、偏に滅後末法救済のためであると説き、末法為正を主張している。 これらの文に基づいて、後世日蓮学史上に寿量正意論(不軽日真)、寿量一品正意論(広蔵日辰)が主張された。
寿量文上・文底」とは、寿量品の文面の上の教説と寿量品の文義の奥底の経意ということ。 本門寿量の教主を釈するに、寿量品の文上・文底相対がある。 寿量品文上の説相は、久遠五百億麈点劫の最初に、菩薩の本因の道を修行して初めて本果の成道を得、それより已来無量無辺と説かれている。 我実成仏の始めありとすれば、無量無辺の昔であっても、久遠の初めがあることになる。 寿量品の説相は久遠の始覚であって、本覚無始の本仏ではない。 しかし寿量品説法の目的は、本仏の無始常住を顕すにあるから、久遠始覚の成道に即して本覚無始の本仏を顕すのである。 これを寿量の文上は有始無終の仏を説くが、その文底は無始無終本仏を顕すというのである。 文底の意をもって文上を見れば「生死の若しは退、若しは出あることなく」「常住此説法」「常住霊鷲山」と常住の義を説き、文上もまた無始なりともいい得るが、経文の上は有始無終とするのが説相から正しいのである。 これを寿量品の上底相対という。 かように文上・文底の相対を論ずるとも、文上教相寿量を離れて文底観心の妙法を見ることは出来ず、文底観心の妙法は文上教相の寿量によって顕されるのであるから、文上を劣れりと捨つべきではない。 従って日蓮正宗教学において、文上(釈尊の教え)と文底(日蓮聖人の教え)と相対して種脱を判じ、末法においては下種の法たる日蓮聖人の仏法が勝されているとして、釈迦脱仏・日蓮本仏を論ずるは、法華経と日蓮聖人遺文とを曲解したものといえる。
寿量儀式」とは、寿量品偈の「時我及衆僧、倶出霊鷲山」の文を本尊儀相の本拠とすることをいう。 ち、本仏娑婆常住により本尊の根本は立ち、信行者の前に常に現在前するところに、本尊の儀相は明らかとなるという。 『御義口伝』に右の文について「霊山一会儼然未散の文也。 (略)本門事の一念三千の明文也。 御本尊は此の文を顕し出し玉ふ也」(定二六六八頁)とあるに基づく。
《『遺文辞典』教学篇「寿量」の項、『日蓮辞典』「寿量顕本」の項》

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