無始無終
無始無終
むしむしゅう
「始め無く終り無し」という義で、日常的な時間を超越した三世常住、あるいは久遠、永遠なることを意味する。
無常生滅の有始有終という語に対し、常住不滅をいう。
日蓮聖人は法華経本門の釈尊と始成の釈尊とを論じる場合に、有始・無始の概念を用いられている。
『八宗違目鈔』(定五二六頁)に華厳宗、三論宗、法相宗の本尊は釈尊であると図表化して、その釈尊は法身、報身、応身の三身を具足されているのであるが、しかしそれは始成正覚であるために、法身のみ無始無終であって、報身は有始無終、応身は有始有終であると規定されている。
また同じように『一代五時図』(定二三四二頁)においても、始成の三身として、法身を無始無終、報身を有始無終、応身を有始有終と記されている。
つまり始成正覚の三身では、法身だけが無始無終の本地が顕されているのみで、報身、応身は有始ということになるのである。
この始成正覚の仏は本門寿量品において久遠実成であることが開顕され、久成の三身の本地が明らかとなる。
これを顕本というが、この本地開顕によって法身・報身・応身の無始無終、三世常住が定まったのである。
『開目抄』に「雙林最後の大般涅槃経四十巻、其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」(定五五三頁)とあるのは、爾前迹門の仏身をいい、本門の開迹顕本によって三身の無始無終が顕されたことを意味する。
このことを『一代五時図』(定二三四二頁)には、久成の三身として、法・報・応三身の無始無終が図表化されている。
また聖人は「無始の仏界」「無始の九界」「無始の古仏」と「無始」の語を用いられるが、この無始とは本門寿量品における顕本された世界、無始久遠を指しているのである。
《『日蓮辞典』「無始無終」の項》