三身
三身
さんじん
仏徳の三方面をいう。
これに凡そ二種類がある。
一は天親の『妙法蓮華経優波提舎』系の法身・報身・応身と、他は『金光明経』系の法身・応身・化身である。
法報応三身の中の法身は非因非果・無始無終の真如であり、仏の所証の理境である。
報身は仏の能証の智恵で、この智と境とが境智一如したところを成仏という。
一如するべく因行を修するから、因果乗々であり、一如する以前と以後とがあって元来は有始無終である。
応身は境智冥合の後、化他の慈悲に出た仏であり、化縁があれば生じ、化縁が尽きれば滅する垂迹の仏であるから、元来は有始有終であり、歴史上の釈尊はこの仏と見られる。
この三身の場合は報身が中心であって、報身が因果を修証して法身を悟り、化他に出て応身を現ずることになる。
法応化の三身の中の法身は大体は法報応三身のときの法身と同義であるが、違うところは、法身自体に活動性を認めるところで、本体たる法身が縁にふれて活動を起して化他の働きをなす時は、地上の菩薩に対するときを応身、地下の凡夫に対するときを化身と称する。
法身は元来非因非果であるから、仏陀の成道不成道は問題にならない。
非因非果の法身及びその働きだけに着眼した仏身観であるから、本体たる法身を中心に据えることは勿論である。
そして法報応三身説に立つ宗旨が天台宗、及びそれを継承した日蓮宗であり、法応化三身説の系譜に属する代表が真言宗である。
真言宗は法身大日を中心として、これを自性法身と呼び、次第に受用法身・変化法身・等流法身の四身を立て、すべてを大日法身の流転とする。
天台宗の三身説は智顗の『法華文句』巻九下の寿量品釈に始まる。
初め二身論・三身論の意味について種々に論じてのち、天親の『法華論』によって応化仏・報仏・法仏の三身義を採り、法身は「如々理」を命となし、経に「非実非虚非如非異」とあるのがそれであり、報身は「智慧」を命となし、経に「我智力如是 慧光照無量 寿命無数劫 久修業所得」とあるのがそれであり、応身は「同縁の理」を命とし、経に「現有滅不滅」「名字不同年紀大小」とあるのがそれである、と定義する。
法報応の三身名を採り、三身の定義を終ったので、次には三身の常無常問題を論ずる。
三身をそれぞれ常・無常・亦常亦無常・非常非無常の四句に分別するが、意のあるところは三身のそれぞれの常住にあることは明らかである。
次にこの三身の即不即を論じて「一身即是三身、不一不異」というが、寧ろ有名なのは、文に入って経の「如来秘密神通之力」を釈して「一身即三身なるを名けて秘と為し、三身即一身なるを名けて密となす(略)仏は三世に於て等しく三身あり、諸経の中に於て之を秘して伝えず」というところであろう。
これを敷衍して三身は縁の感見不同によるところであって、仏に三種の別があるのではないと教える。
では三身相即の中ではどの仏身を中心に据えるか。
次に云く「此品の詮量は通じて三身を明す。
若し別意に従はば正しく報身に在り。
何を以ての故に、義便に文会す。
義便とは、報身の智慧は上に(法身に)冥し下に(応身に)契うて三身宛足す、故に義便と言ふ。
文会とは、我れ成仏してより已来甚大久遠の故に能く三世に衆生を利益したまふと。
所成は即ち法身、能成は即ち報身、法と報と合する故に能く物を益す、故に文会と言ふ。
此れを以て之を推するに、正意は是れ報身仏の功徳を論ずるなり」と。
三身宛足の義理を考える上においても便利であるし、また経文に会合する点において正在報身とするという意見である。
これを天台宗の宗是として遵守したのが六祖湛然および日本天台宗の開祖最澄であったが、三代座主円仁以降真言密教を叡山教学の中心とするに至って、法華仏身観は大日法身観に影響されて、法身中心に移行した。
例えば円珍はその顕教部に属する著作の『法華論記』においてさえ、「円の三身は法中論三にして他と同じからず」(十無上中第八の示現三種仏菩提の註釈部分)という。
一八代座主良源が比叡山に論議を興して以降、次第に成立した中古天台は、これらの密教畑の中で育成された教学を全面的に継承して、これを法華経の名において再編した口伝仏教に外ならないから、その仏身論としての特徴である無作三身論も当然ながら法身為正である。
無作三身は因果乗々の仏ではなく、無因無果の凡夫を非因非果の法身理によって絶対肯定する思想である。
日蓮聖人は日本天台宗から出発しつつも、その中から密教・華厳・念仏等の夾雑物を可能なかぎり排除して純粋法華教学を樹立することを念願し努力された。
従って三身論も報身中心であった。
『法華真言勝劣事』に「大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終也、三身の無始無終に非ず」(定三〇八頁)、『開目抄』に「雙林最後の大般涅槃経四十巻、其外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども、応身・報身の顕本はとかれず」(定五五二頁)とあるのは、法身中心主義の否定である。
応身の顕本とは慈悲救済の活動が本時以来反復されているということであり、報身の顕本とは釈尊の成道は伽耶始成ではなくて久遠実成であるということであり、応身・報身が顕本されて無始無終性が顕われると、法身の無始無終ばかりでなく、三身の無始無終が顕れることになる。
《『遺文辞典』教学篇「三身」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「三身」の項、『天台学辞典』「三身」「法身」「報身」「応身」「劣応身」の項》