日蓮宗
日蓮宗
にちれんしゅう
法華経を生命とする本宗は古来から「法華宗」、「日蓮法華宗」、「日蓮宗」などと通称されてきた。
「日蓮は何れの宗の元祖にも非ず」といわれた聖人も、釈尊所立の妙法蓮華経宗といい、自ら法華宗比丘とも名乗っているが一定した宗名は明治以降のことに属する。
その経緯は、百事改革を基本とする草創期にあった明治維新の政府は明治五年(一八七二)一〇月神道、仏教の各界を統轄する必要上、一宗毎に一管長を設けるようにしたために教義の相違から勝劣派、一致派と分れていた題目系の各派は合併して日蓮宗と総称し、交替制の管長を定めた。
しかしこの各派一纏めには内部的に問題があり、宗教行政にも無理があったことから政府は同七年三月各派別に管長を置くことに修正した。
本宗では本門迹門一致を主張する建前から日蓮宗一致派を名乗って新居日薩が管長となった。
次いで八年になり宗名を一致(いっち)とすることは立宗の本義に外れるのみならず「宗派ノ源流ト支流ノ分弁モ相混ジ不都合」につきという理由で「派名廃止伺書」を政府へ提出し、単に日蓮宗とのみ称したい意向を請願したが、題目系他派との関係もあってか一応撤回した。
再度の強訴に管長副書を添えて教判、宗旨、かつまた宗名は人についてすべきであることを詳述し、管長自らもしばしば陳情に赴くという紆余曲折を経て、翌九年二月二七日に入り漸く承認をみるに至った。
後年日薩門下の清水梁山は「名称は宗祖の御遺誡を主とすべきである。昔は天台法華宗に対し日蓮法華宗といった。維新後は二字がとれて日蓮宗というようになった。御義口伝(御講聞書に非る也)に〈日蓮の弟子檀那は本果より本因を宗とするなり〉とある。これ即ち宗名の起りなり」と主張している。
が、いずれにしても以後、宗名日蓮宗を称して今日に及び、その伝統を本化上行の再誕日蓮聖人が付嘱された釈尊所立の真髄たる法華経を広宣流布するにありとし、法華経本門の三大秘法を信行の本旨とすると共に、異体同心にして皆帰妙法の祖願達成に精通することを本誓とする仏教正統の宗団であり、所定の儀式行事を行い、僧侶を養成し、信者を教化し、寺院及び教会を包括し、その他統一ある教団行動によって関係事業の遂行を所期の目的としている。
本宗の源流を振りかえると、武家政治の覇府鎌倉期には親鸞、道元、一遍など庶民の心を動かす新しい息吹をもった教えが鼻を揃えて生れた。
日蓮聖人もまた時を同じく貞応元年(一二二二)、三上皇島流しで知られた承久の変の翌年、安房小湊に孤々の声を挙げ、一二歳で天台の巨刹清澄寺に入った。
即ち「民の家より出でて頭をそり、袈裟をきたり」(『妙法比丘尼御返事』定一五五三頁)といい、また貧窮下賤の者と生れ、あえて社会の底辺の出身なることを明かしている。
これは法然源空が「源空はいう甲斐なき辺国の土民なり」といったのに似ているが、当時の名僧の多くが貴紳顕門の出である中を殊更に自己を卑称していることは、仏教界の貴族化に対する一種の抗議であり、庶民の心に溶け込もうとする弘教精神の現れであろう。
こうした時の上層階級に浸透し、貴族的仏教といわれる世の風潮の流れをよそに、宗祖は清澄出家以来、吐血する程の克己精進、止暇断眠の後、学問の成果として『戒體即身成仏義』を纒めた。
二一歳より建長五年(一二五三)四月二八日(三二歳)で旭森に題目創唱に至るまで比叡山を中心に各所を遍歴遊学し八宗、一〇宗を極めた結果「此れを申さば必ず日蓮が命と成るべし」(『清澄寺大衆中』定一一三四頁)と死を覚悟の上で諸宗の誤りを強く破折した。
地頭(じとう)僧俗の怒りを招き、清澄の山を追われてからは、鎌倉に居を求めて街頭法門を展開した。
『立正安国論』を幕府へ上書して諫言し、各宗の邪義、悪法を批判して法華経の貴さを説いた。
その結果、焼打ちの迫害、伊豆の流罪となり、竜の口では首の座に据えられ、小松原では清澄説法以来の法敵・地頭景信の剣難を受けた。
遂に文永八年(一二七一)一〇月、死罪同然の佐渡配流となったが、勧持品二十行の偈の色読を自覚され「今の世の僧等日蓮を讒奏して流罪せずば、此の経文むなし(略)日蓮法華経のゆへに度々ながされずば数々(さくさく)の二字いかんがせん。(略)御勘気を蒙ればいよいよ悦びをますべし」(定五六〇頁)とした。
この流罪によって佐渡の地頭本間家の帰依するところとなり、法華未生の地に下種結縁する結果となった。
また人開顕といわれる『開目抄』、法開顕とされる『本尊抄』などの重要法門を著し、在佐三年の忍苦を経て赦免となり、文永一一年三月鎌倉に帰還し、波木井一族に迎えられて身延山に入った。
以後は弟子檀越の摂化と教育に当り、弘安五年(一二八二)九月八日、釈尊入滅の故事にならい身延を立って武州池上宗仲の邸に到り、万事を配慮し、帝都弘通の念願を託して一〇月一三日六一歳を一期として入滅された。
宗祖滅後、日昭、日朗、日向、日興、日頂、日持の六大弟子はそれぞれ独自の立場において教線を張り、また日朗門下の九鳳と称された人々は、いずれも法績を残した。
とりわけ日像は京都に上って法華宗を名乗り、題目を唱導して法戦の結果、後醍醐帝の聖旨を受け、浄域を賜わり後年妙顕寺となった一宇を建て法華伝道の拠点とするに至り聖人臨滅度時の遺命を果し、四条門流といわれて六条門流と共に栄えた。
室町時代に及んでは身延の行学院日朝、平賀の妙高院日意などの高僧によって法門弘通の盛んな反面、永享法難(一四三六)を始め『立正治国論』を将軍義教に上書して怒りにふれた冠鐺日親の法華強信による酸鼻を極めた受難があった。
また天文五年(一五三六)には法論敗北に端を発した比叡山僧徒の怨憎による襲撃を受け、京都の盛大な法華諸山二一ヵ寺が焼失し、殉難の僧俗多数を出して京の町を大火の厄に巻き込むほどの潰滅的な大法難を受けた。
織豊時代に入っては信長を謀略の背景とする浄土門との宗論を原因とする残酷な安土法難(一五七九)があり、別には上総大野法難の悲劇もあったが、三類の強敵を覚悟した日蓮聖人以来の法難を一つの節として一難ある毎に教線は伸びた。
徳川時代にあっては慶長法難(一六〇八)といわれる常楽院日経の極刑や、不受不施弾圧事件があったほかは、幕府が仏教一般に対して保護政策をとったので国教的地位に恵まれた。
この頃人材が多く、宗門中興の三師といわれた一如日重、寂照日乾、心性日遠などの名僧も出て大いに法誉を高めた。
のち明治維新の廃仏毀釈によって大きく迫害を蒙り、法滅盡の慨きもきかれたが、日薩、日鑑、日修らの三傑によって宗門の危機は支えられ、加えて一般僧侶の反省努力と政府の配慮によって逐次頽勢を挽回した。
明治一七年(一八八四)には仏教各界共に国の巨細に亘る直轄支配から解放されて自治体となり、宗制、寺法を確立して宗門の方途を強固にした。
以後、幾多の変遷はあったがいずれも布教伝道の使命を自覚し、その抱負所信に邁進している。
本宗にあっては明治八年の初期宗会において「久遠寺ヲ祖山ト称シ」と定めてから、日蓮聖人九カ年隠棲、留魂の地として時に総本山と尊崇し今に祖山と仰ぎ、池上本門寺、中山法華経寺、京都妙顕寺、本圀寺、北山本門寺等、総本山、大本山、本山と通称されるものを含めて霊跡、由緒寺院五五、元・中本寺などのほか一般寺院等合して四五六一、教会三八一、結社二五七を有している。
全国教師数は住職四一〇五、担任二三七、教導一四三、非住職二七九八、合計七二八三を数える(54・10・31現在)、宗務院を池上におき、内局に総務、庶務、教務、護法伝道、新聞、財務の六部一二課を組織し、宗門の象徴的存在としての統理者たる管長を推戴するほか、行政上の責任者たる宗務総長が宗教法人日蓮宗の代表役員として統制指揮に当っている。
全国に七四宗務所を分置し、これに所長を設けて出先機関とし、中央の宗務伝達、連絡、実践に当らせ、更にこれを地域的に一〇宗務区及び輪番区に分割してそれぞれ区長を任命し、宗務所相互の連携を計ると共に、六老輪番の遺風を遵守して祖廟の輪番奉仕に当っている。
議決機関には宗会があって公選による者四三、推薦二、の四十五名の議員から成っている。
その他管長推戴委員会、宗務顧問会、各種審議会、宗勢調査会、檀信徒協議会等を置き、研究機関に日蓮教学、法華文化、現代宗教等の各研究所があり、布教院、信行道場、祈祷修法の加行所などがあって行学二道を担当している。
教育機関では明治八年に人材養成の急務を感じて設立した大教院を母体とする日蓮宗大檀林以来の歴史をもつ立正大学が大崎及び熊谷市にあり、身延に身延山短大があって、いずれも付属高校をもち、他に宗門有志による東京立正女子大学がある。
またアメリカ、ハワイ、アラスカ、カナダ、南米等に教会があって海外布教を行い、「日蓮宗新聞」、『宗報』、『正法』などの宗門機関紙を発行し、伝道車、視聴覚、講演講話等の言説文書伝道と相まって護法統一信行運動の展開がある。
(牧野内寛清)