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管長

かんちょう #4410

管長

かんちょう

管長は一宗を代表し統理する最高位に在って住職、担任等の認証は勿論宗会の招集、解散などの権限をもつが、によって行政上の実権者である場合と無答責の象徴的存在の場合がある。
既往の変遷を辿ってみるに、明治以前にはその職名はなく、この職の必要もなかったが、徳川最後の将軍慶喜がその職を辞し、大政を奉還して全封土を返上するに及んで、維新の首脳者達は慶応三年(一八六七)朝廷の制一切を改め総裁、議定、参与の三職を制定した。
次いで権力の府である太政官と神祇官及び大蔵、民部等の二官六省を置いて神祇官を上位に据え、あるいは宣使という外局を設けて神ながらの道を宣させるに至った。
明治元年(一八六八)三月一七日には神祇務局から太政官の名をもって各神社に対し、神仏分離の通達を発した。
これが導火線となって遂に廃仏毀釈の弾圧が各地に拡がり廃合寺が大々的に行われ破の狼藉は激烈を極めた。 そのため教界は教的地位から転落し、神道が勢力を得て的なものとなった。
これは政府が排の思想の強い平田篤胤の流れを汲む神道主義者をもって宗教政策に当らせたためである。
しかし政府はその後に神祇関係の役所を廃止し、明治五年三月部省を設置し社寺行政に当らせてから排仏事情も和らいだが、同年四月、三条教則を教導職に強制してこれを国民思想の根幹たらしめんとし、従来の僧位僧階を撤廃させて教導職一四級を制定し神官僧侶芸人らをこれに任命して三条則の宣布に当らせた。
教導職一四級とは大教正、権大教正、中正、権中正、少正、権少正、大義、権大義、中義、権中義、少義、権少義、訓導、権訓導とされ、政府の認証官位ゆえ非常に権威があったといわれた。
また部省設置に伴い、各宗から才学共に秀れた人物を同省に出仕させ教導職取締役に任じた。
この、本宗では身延久遠寺住職日健老齢のため代として静岡感応寺の一心院日治が出頭し日薩、日鑑、日昇の三師が随行、薩、鑑両師は権訓導となった。
日健は他宗代表と共に管長資格とされた大教正に任ぜられ最高位、初の人となった。
翌六年政府は神合併の大教院を創設したが、これは人材養成と研究機関開設の要求を教側から建言した結果であるに反し、教部省は天之御中主大神等の神々を奉祀し、三条教則による教導職の育成を表明して出仕僧に法談、説法等の言葉の使用を禁じて説教といわせ、服装は法衣でなく神官並または羽織袴の半僧半俗姿で勤めさせ専ら神道のえを説かせた。
この状態は祭政一致の思想から更に進め「政ゴト必ズ祭アリ、祭必ズへアリ」とする祭政一致への方針を露骨化したもので僧侶本来の布教の自由を奪う弾圧の変形であったため、心ある者は不自然を鳴らし、奇観を嘲笑して大狂院と評した。
しかし、こうした状態は傑僧達の強烈な大院分離運動によって政府は対政策の失敗を反省し一〇年正月、結局部省を廃止したが六ヵ年に互る部省代は人をして法滅尽の感を抱かせた。
これより以前、五年六月、政府は教導職管長を設け「管長トハ一宗一派教導職ノ長タル者ヲイウ」となし、次のような布達を発した。
「今般、教導職管長ガ設置サレタニツイテハ銘々奮ッテ文明維新ノ上旨ヲ体認シ、宗規僧風ノ釐正(リセイ)ハ勿論、布教伝道ノ任ニ堪エルべキ人材養育ニ勉メ、末派所化ノ衆徒ニシテ師命ニ背キ積学ノ念ナク、徒ニ糊口安逸ヲ貪ルノ徒アラバ速カニ管長本寺等ヨリ取糺シ、ソノ者ヲ本管地方庁へ申立テ教門一派ヲ黜斥シ帰俗申付クべシ」と、次いで八月「何々宗教導職管長之印」を寸法まで決めて一定させ、管長欠員または不在の場合は代をもって取計らうよう命じた。
同年一〇月には各宗統轄の必要から一宗一管長の制を定め日蓮、天台、真言、浄土、禅、時、真の七宗に教導職管長を同月一〇日限り、正、権大教正の中から選ぶよう「達」があった。 ために題目系では勝劣、一致の各派を合して越後本成寺住職、顕日琳が日蓮宗管長に就任した。
更に同月七日に至り、政府から「従来、独立本山トカ、無本寺トカ称スルモノガアルガ、此等ヲ総本山へ統轄スベキデアル。 依テ十一月晦日限リ取纒メテ申出ズべシ」と通達があったので、協議の結果、総本山へ一つに纒めることは難しいため久遠寺、法華経寺、本門寺、妙顕寺、本圀寺、本成寺、妙満寺などの七本寺制にしたいと申出でたところ、翌六年八月、これら以外の寺院側から苦情もあり、また意義ないこととしてこの申立は撤回された。
やがて一宗一管長制については、維新の過渡期における便法であったことから調和を欠き、七年三月に至り政府はその不合理を改めて各派毎に一管長を置くことを許可したので本迹一致の立場において、本宗は日蓮宗一致派を名乗り、新居日薩管長に就任した。
翌八年六月、日薩管長の主唱により「宗規釐正会議」(碩徳会議ともいう)を二本榎承寺に開き、大院を同寺に設立する件を始め一八ヵ条を提案し可決された。
この会議は本宗の第一次宗会ともいうべき極めて僧風革新の気運に満ちた意義深いものでこの後宗是の礎石となるに至った。 寺院の等級を定めることのほか、宗務局役員、全院設置の学区割等育の問題、特に維新後の世論を反映して画期的なものは、人材登用の件である。
管長の選出は寺格、教導職の如何を問わず公選とし、身延山久遠寺を祖山と称し、各本寺及び諸末寺住職の選出は人材本位、法縁年齢の如何に拘泥せず、また諸府県下の教導職取締を罷免して公選すべし、とした。
この後、八年一二月に至り宗名「一致派」は日蓮立宗の原義に外れ、不都合尠からずとして日蓮宗と改称することを政府に強訴し、紆余曲折の結果、明治九年二月二七日をもって許可となり、日蓮宗と単称し日薩また単称初代の管長となった。
管長の権威と行政執行の実力は強く、特に日薩の場合「手荒い正」と評されたように「宗規釐正に基き」仮借なく罷免、黜斥の措置に出ている。
管長は名実共に一宗の浮沈を担う責任者として為宗、為法その命を堵けていたかのようである。
次いで一一年四月、管長日禎会議主となり深川浄心寺において本山会議を開き、本山等差の件など一〇ヵ条が議決された。
本山等差とは総本山久遠寺を管長受持(常任)の寺跡とし、本圀、妙顕、本門、法華経寺等を大本山として臨時管長を委任出来る寺跡とし、爾余の各本山は同列であり、総本山住職は四大本山中より昇進することなどである。
また同年七月、本山等の呼名に関する政府への願いが叶い「総大五山、三十九本山ノ称呼順位等ノガ公称許可」となり、総称して四四ヵ本山といった。
明治一七年八月一一日政府は、太政官達一九号をもって神管長を勅任官待遇とし、従来の教導職を廃して寺院住職の任免進退寺一切の権限を管長に委任し、五ヵ条を指定して各宗の宗制寺法を確立するよう布達した。
「是にて各宗皆初めて宗制寺法を定む。 盖し、これを以て各宗管長を置くの始めとすべきなり」と村上専精は『日本仏史綱』の中で独自の説を吐いている程に、この布達は画期的意義をもっている。
この管長福田日耀は大教院にて会議を開き前記の布達五ヵ条に基づく宗制一九、寺法七条のほか教師の分限、称号等、細部に亘って議決し、一一年会議で決定した本山等差の件が改正され、四四ヵ本山住職中より管長を公選することとした。
本山等差の改正の底流には新居日薩が病床で非常に憂慮したほど会議紛糾の怖れが多分にあった。
関西側本山が管長輪番制を唱え、身延永管長制を執る時は関西にも管長と大教院設置、つまり東西分裂両管長出現が予想されたからである。
明治一八年一一月第八代管長に京都大本山本圀寺の三村日修が就任し、本山妙法華寺の物部日厳が監督(宗務総監)になった。 幾許もなく日修は、選挙されて総本山久遠寺へ栄進した。
あたかも太政官が廃止、内閣が組織され、伊藤博文が初代の総理大臣になり、憲法発布(明治二二年)会開設(二三年)が迫り自由民権の思潮が昂り、政治だけでなく、交通、通信、文化、宗教等あらゆる面で文明開化の浪に洗われつつあった。
管長は就任以来、変り行く代の流れを洞察しつつ、宗門の前途に思いを馳せ、基本方策の樹立に深慮した。
二一年八月、宗規改良議案一三ヵ条を作成し、これを各本山その他に送り地方の意見を求めた。 その要旨は「社会全体の進展が宗教に影響なしとしない。 原案の主旨は育、布教を興隆し、理財を整頓し、権一致、法令一途の方法を採り、一宗僧俗の向うところを定めたい。 そのため地方寺院の往復の煩を避け、会議の経費を考慮し、総大五山と各区代表を集めて審議したいから、為宗の方策について吐露されたい」というものであった。
このアンケートの結果は、賛意を積極的に表すものと「身延管長」と「宗務院身延移転」は伝統無視、代逆行なりとして強く反対するものとがあり、特にこの地方諮問を本山盟約を破るものとする本山側の不満反対は猛烈なものがあった。
しかし同年一〇月二〇日、賛否両派緊張のうちに開催された諮総会は結局、一六両条とも過半数を占めて当局原案が可決された。 当局は改良議案の認可申請を求めたが、反対派の陳情に加え情の騒然たることもあって遂に認可が得られなかった。
海解、佐野前励らは為宗会を組織し、廃本合末論を唱えたことから同盟本山側は益々硬化し、宗内抗争はいよいよエスカレートし、監督の交替等も行われたが、遂に収拾に至らず管長日修は職を辞し、孤影悄然として身延に帰り、二四年五月一七日、宗門の現状と前途を案じつつ遷化した。
同年一二月二五日京都大本山妙顕寺住職小林日董が選挙され第一〇代管長に就任した。
翌二五年和解成立「管長は、総大本山以下四四ヵ本山現職中より投票公選とし、任期は満三年とす」となり、日董は二月一六日付で、為宗会関係の小泉日慈、市川錬秀、本間海解、物部日厳、脇田堯惇ら一四名を役職罷免、僧階降退処分に付し諭告を発して協方を求め一件落着した。
諮問騒動後明治三〇年には四四ヵ本山住職中より、投票互選で管長選出とし、特に布教条令中「親教」を定め管長自ら一教区若しくは数教区を巡化し僧都以上の者を一員随行させ前師とした。
大正三年(一九一四)に至り総大五山住職中より、本山住職によって選出と変り、同一二年には総大五山、本山住職を被選人とし、本山及び末寺五等以上の住職で選挙することになり、翌一三年に入り、当時の世論であった「普選」の影響もあって選挙人資格を一般寺院住職にまで拡大するに至った。
しかし昭和一一年(一九三六)九月久遠寺法主望月日謙が管長となると、祖廟中心の実現として身延山法主を公選とする法主即管長制を提案し、同一三年三月第三三宗会において議決された。
ち四四ヵ本山、本山末寺住職で権大僧正以上の者を一般住職によって公選し、当選法主管長になる仕組で、管長候補は九名の代表による宗参議会で選考することになった。 これによって明治初年以来の管長選出に関する想が遂げられたものといえよう。
この制成るや、望月法主は同年七月管長職を一応辞任し、公選の結果管長に再選就任した。
昭和一四年四月平沼内閣によって、宗教団体法案が成立以来、宗教界統制の方向が進められ、翌一五年に至り戦時色濃厚となり、時局は急迫を告げ、各界統制、新体制促進が叫ばれるに及び、同一六年第三七宗会を開き、新宗制並びに「日蓮宗、本門宗、顕本法華宗、の三派合同し新たに日蓮宗を設立するの件」が提案され、合同の画期的実現をみるに至ったので、新宗制の選任方法により池上本門寺住職酒井日慎管長に就任した。
その宗制によれば管長は総本山及大本山の住職中から宗機顧問会が候補者一名を推薦し、従来の四大本山へ旧本門宗本門寺、旧顕本法華宗妙満寺を加えて総大五山を七山とし、宗機顧問は一三名で管長の任命による総本山、大本山の住職より六、宗議側から三、宗門功労者で僧正以上の者四名をもって構成した。
なおこの合同による特色は、総則九ヵ条として(一)宗名(二)法人(三)務所を示し、(四)-(九)条までが宗旨伝統本尊、教義、信行、経典、釈書となっており、特に「本尊」については「本宗ノ本尊ハ宗祖奠定ノ大曼荼羅ニシテコレヲ本門ノ本尊ト称ス、大曼荼羅ハ紙木ノ様式ヲモッテ勧請シ併セテ宗祖ノ尊像ヲ安置ス」とあり、また信行の目的を「大業恢弘八紘一宇ノ皇道ヲ翼賛スルニ在リ」とするなど非常時局を反映した思想が明確に浮彫りされている。
また宗教団体法成立の翌一五年一〇月には本山会議の結果、本末解消が決議されるという統制時代の影響を知る特筆項がある。
よって「寺院ヲ分テ本山末寺ノ二種トス」(『日蓮宗法規』大正一二年、昭和八年版)と定められた歴史ある伝統及び、本山住職異動の場合の管長告達による後任選挙の煩雑さ等もここに消え去った。
次いで二〇年八月第二次世界大戦終結を迎え新憲法の制定に伴い、宗団法は廃止され、宗教法人令が施行されると離脱寺院が現れ、二一年三月には 中山法華経寺が新宗制による本尊観に異論を立て、離脱し、爾来この種の問題に関する抗争が続いた。
同二一年には管長選拳制度を改正し住職にして僧正以上の者を管長被選人とし全寺院等しく宗教法人であり法的には皆平等との解釈から住職及び担任教師を選挙人とし、公選の結果祖山住職深見日円が同年九月当選就任した。
二四年二月に及び清澄寺が本宗へ改宗するという慶事があり、管長を住職とした。
七月に入り第一〇宗会において管長制を廃し、宗務総長制が施行され、の宗務総監肉倉宝運が総長に選任された。
総長は名実共に宗門の責任を担うものとし、明治以来の管長の者はここに消え去った。
次いで二六年第一三宗会において肉倉内局のとき宗本一体制に移行した。
身延山と宗務当局との一体化で、祖山久遠寺法主は宗門最高の主であって政治責任の無い無答責の神聖な法王的存在とし、法主の下に総監を、総監の下に宗務司監(宗務担当)と山務司監身延山山務担当)を置いた。
宗務総監は久遠寺と宗門との主管者を兼ね、山務司監は山務のみならず宗務の決定権もあったのでここに宗本一致の体制が実現した。
この制は満三年にして終りを告げ二九年宗本分離、管長制に復し、同年四月、総監増田日遠が管長に、三四年三月京都妙顕寺住職山田日真が管長となった。
三七年三月第一一宗会で現状宗門の体質を考慮し、推薦する方式を最適として公選を廃し三八年一月三〇日「管長推戴委員会」推戴によって祖山法主藤井日静が改新宗制初の管長となり、四六年一月まで在任し、その後望月日雄を経て昭和五十四年の望月日滋に及んでいる。
巻末の歴代管長表参照。
(牧野内寛清)

【補記】上記は昭和五六年発行『日蓮宗典』掲載の内容である。

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