三派合同
三派合同
さんぱごうどう
昭和一六年(一九四一)三月、日蓮宗、本門宗、顕本法華宗の三宗派が合同して新たに「日蓮宗」という一宗派を設立したことをいう。
日蓮聖人滅後間もなく分派を生じ、明治三三(一九〇〇)年、最後に富士派が独立した当時は九派に分れていた。
以後そのまま昭和一四年頃から始まったいわゆる非常時、新体制時代、国家統制時代を迎えることになった。
これより先、本化門下合同の運動は明治以後になってからも再三見られたが(明治三五年東京上野公園における宗徒大会。
大正四年=一九一五=田中智学、本多日生、脇田堯惇らの主導する統合運動等)、いずれも実現に到らなかった。
国家がいよいよ非常時に突入し、諸般の社会組織、個人生活がすべて国家権力の統制下に入らざるを得ない時期に遭遇し、仏教、教派神道、基督教の各教団も極力団結して国家目的遂行に奉仕すべきことを要請された。
旧日蓮宗においても、この時局認識のもとに昭和一五年九月、宗門新体制促進会を開催して、宗門要路の人々の会同を求め門下合同の可否を問うた。
総員賛成の下に日蓮門下各派に呼びかけ全体合同を実現すべしという結論を得た。
そこで特別委員を挙げ、旧日蓮宗が主体となって門下各派に呼びかけ、第一回の会議を一〇月三日東京小伝馬町村雲別院に開催した。
このとき代表者を送らなかった宗派は顕本法華宗と日蓮正宗であった。
越えて一一月一〇日、偶々紀元二六〇〇年記念奉祝のため東上していた各派管長を一堂に招待し、文部省宗教局長及び理事官の出席を求め合同問題についての考え方、方法等について意見を交換したが結論を得られなかった。
その後十数回に互って折衝委員会を開いたが、その間日蓮正宗は一度も会議に加わらなかった。
初めこの問題について比較的消極的であった顕本法華宗が俄然積極的態度を示すに至った。
しかるにその年最後の委員会において、教義の問題即ち本迹勝劣、本迹一致等の問題、管長推薦機構の問題等核心の検討に入ると、潜在していた宗派意識が俄然抬頭して決裂の危機に当面した。
そこでやむを得ず年末多忙を理由に一時冷却期間を置くことにした。
翌昭和一六年一月中旬委員会を再開した。
主務官庁からは、同年三月末日までに宗制認可ができるように申請書を提出せよと厳重な申し渡しがあった。
これに間に合せるためには最早時日が足らない。
やむを得ず、それまでの意見交換の経緯に徴して主張の相似た二つの集団に分れるより他に道がないとして取敢えず暫定的に日蓮、顕本、不受不施、同講門派の一団と、いわゆる勝劣派の本門、本妙法華、本門法華、法華の一団とに分れて協議することにした。
日蓮宗は顕本法華と手を握り、不受不施、同講門派の宗内与論の推移を見守ることに意見が一致した。
そこで日蓮、顕本両宗の委員によって急遽合同宗制案を起草した。
顕本側が殆ど無条件白紙の態度で臨んだため七〇七箇条に亘る膨大な宗制案が僅か五日間で出来上った。
一方不受不施側は宗内与論の統一を得ず遂に期間内に加入申し出がなかった。
しかるところ本門宗では二月一六日聖誕の聖日に開かれた宗会において「門祖日興上人が故あって六〇〇年前、身延を去られたが、上人の御精神は祖師の膝下を離れて分派を志ざされたのではないから、合同するならばその根元である日蓮宗側に入るのが至当である」という意見が多数を制し、翌日同派管長は重役を伴って日蓮宗宗務院に来訪され、無条件で日蓮、顕本の合同に加えて欲しい旨の意思表示があった。
そこで再び三宗派合同の宗制案が練り直されたが殆ど修正されるところなく、日蓮宗においてはこれを第三七宗会に提案した。
同宗会では、反対意見皆無、全員心からなる賛意を表し極めて順調迅速に合同宗制案は成立した。
主務官庁もまたこれを速やかに認可した。
かくして昭和一六年三月二九日付新しい宗教法人日蓮宗が誕生したのである。
因みに時の管長、宗務当局は日蓮―望月日謙、平間寿本、顕本―井村日咸、松本日公、本門―由比日光、上杉諦礼の各師であった。
その合併の型態は一が他を吸収して合併するのではなく、三者が消滅して新たに一宗派を形成する設立合併であった。
本化門下各派のうち有力な三派が欣然として合同したことは、多年の宿願がかなったこととして一大慶事であることに相違ない。
新生日蓮宗としてはこれを慶祝記念するために、同年四月三日、合同奉告式を総本山久遠寺で奉行した。
これに先立ち四月二日、北山本門寺では門祖興尊に対する合同の奉告と共に興尊の御魂を奉じて祖廟にお送りするという式典が行われた。
旧日蓮宗側からは、平間宗務総監、身延山柴田総務、湯川、志津木、竹田の三部長、渡部主事、旧顕本側からは松本宗務総監、星野部長が随喜参列した。
法要後、一同展墓し、式中奉展した大曼陀羅を興尊の御魂として奉持して北山を後ろに祖廟に参進、御廟前において興尊御帰還の奉告を申し上げた。
翌四月三日午前八時三宗派代表が揃って祖廟へ参拝し、一〇時から棲神閣で大慶典が奉行された。
参列者は三管長以下三派の宗務役員、重立寺院寺一五〇余名。
日蓮、本門、顕本の順に各管長はそれぞれ声涙溢れる奉告文を言上された。
そのうち最も強い印象を与えた本門宗管長の奉告文の全文を左に掲げる。
「玆に恭しく末法救護の大曼荼羅勧請の諸尊、殊には宗祖日蓮大聖人、別しては門祖白蓮阿闍梨日興尊者等、証知照鑑の御前に於て、不肖日光、本門宗を代表し、慎んで日蓮宗と合同の儀を言上し奉る。
夫れ惟るに宗祖の滅に臨み給うや、付法慇懃慈誡切々、特に命ずるに輪次守塔の大事を以てす。
玆を以て滅後、此の棲神の霊地に聖舎利を埋めて宝塔を建つるや、六祖及び十八子、月次を定めて厳に遺誡を守る。
然るに餘尊の地の遼遠にして法務の多端なる、時に支障なきに非ず。
之に反し独り我が興尊は、啻に地の近邇せるのみならず、その性の謹厳にして師命を重んずるの深き、自ら進んで聖務に服し、祖塔給仕の誠悃を抽んず。
時偶々開基大檀越波木井公、輪次守塔の制を廃して常住守塔の山主を置かんことを提議す。
蓋し其の意祖山の興隆発展を期するに在り。
然るに興尊は宗祖臨滅の遺命を重んじて敢て之を許さず、乃ち玆に彼木井公と意見の乖離を来たす。
然も興尊の制法に厳なる、化儀行法に於ても亦五一疎隔の事あり、快々として懌ばざるに至る。
鳴呼、遺命に忠ならんと欲するも遂に祖山に留まる可らず。
假令い波木井公の議を許すと雖も信節を屈するを奈何せん。
此に於てか断乎衣を拂って祖山を去る。
興尊の胸中夫れ如何ぞや。
爾後再び祖山の地を踏まず、専ら宗祖付属の旨を体し、本門事戒檀建立を期して力を富士の経営に注ぐ。
然も守塔給仕の遺命を憶うことの切なる、寂を示してその御墓を営むや、命じて祖廟の地に面して之を建てしむ。
蓋し寂後尚お給仕の衷情を表せんが為なり、鳴呼我が興尊、祖山を離れて再び其の地を踏まずと雖も、其の心は常に祖廟を離れざるなり。
爾来、古制を傳え、信節を守り、法燈相続玆に六百五十餘年、今や聖代昭明の運に曾して合同の議頓に熟す。
何ぞ区々の情實に拘わって異体同心の祖訓に背かんや。
況や興尊畢生の志願、祖廟奉仕の一事に在るをや。
今幸いにして機熟し時至る。
何ぞ合同としも言わんや。
我儕(わがせい)たゞ興尊の威霊を奉じて祖山に還り、その遺志を紹いで祖廟に奉仕するの一事あるのみ。
興尊の威霊亦た我等が微衷を領納し給わん歟。
乃ち日光等謹んで門祖興尊の深衷を量り奉り、更に国家世局の重大に鑑み、慎重熟慮、挙宗合議、去る二月十六日、宗祖降誕の聖辰を以て祖山還元の大事を決し、今玆に恭しく奉告の儀を修し奉る。
仰願くは宗祖日蓮大聖人、門祖日興尊者、並びに興門歴代の諸先師等、納等が微衷を領納し、照鑑加被を垂れ給わんことを。
折から合同の成立したこの年、旧顕本法華宗の始祖日什上人第五五〇年忌に正当するので四月一一日から三日間、京都妙満寺で井村日咸大僧正導師の下に御遠忌と共に合同奉告式が行われた。
旧日蓮宗側からは、湯川日淳、志津木貫誠、竹田智道の三部長及び身延の柴田顗秀総務、旧本門宗側からは上杉諦礼宗務総監が旧宗派を代表して随喜参列した。
こうして三派合同は、形式内容ともに完全に達成されたのである。
因みに他の日蓮門下合同の状況は法華、本門法華、本妙法華の三派が法華宗となり、不受不施派、同講門派が本化正宗となり、日蓮正宗はそのままであった。
(竹田智道)
【補記】
上記は昭和五六年発行『日蓮宗事典』掲載の内容である。『宗定日蓮宗法要式』には記念付録として「日蓮宗」、「本門宗」、「顕本法華宗」の合同報告文をそれぞれを収録している。