妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

本多日生

ほんだにっしょう #3375

本多日生

ほんだにっしょう

(一八六七-一九三一) 明治・大正期の顕本法華宗(妙満寺派)の最高指導者であると共に、当の日蓮門下を代表する傑僧。
日蓮主義の伝道と社会教化に大きな功績を残し、その影響は田中智学(一八六一-一九三九)と並んで、日蓮団はもちろん近代日本社会にはかりしれない力を及ぼした。
現在からみれば、その日蓮学の理解、その主義的言動に批判すべき余地は多々あるが、明治以後の日蓮団の展開の中で、その活躍は特筆すべきものがある。
日生は慶応三年播磨姫路に姫路藩士の二男として生まれた。
幼年にして菩提寺妙善寺(日蓮宗妙満寺派)本多日鏡に随身し、後にその姓を継ぐ。
一三歳で得度し聖応と称し、妙満寺派近代の学匠永昌日鑑の教えを継ぐ児玉日容の弟子となり、日什門流の教学を習う一方、儒教・漢学を修め、一八歳で本山の命により堺妙満寺住職となった。
のち上京、哲学館に入り、宗門の不振を歎き、宗門改革をめざして活躍、管長に認められ、宗制の大改革を断行した。
に二三歳であった。
翌年には務部長に抜擢され、彼の蹟の一つである雑乱勧請(ぞうらんかんじよう)停止に取り組んだが、改革の急に宗門が混乱し妨害も多く、遂に妙満寺派から追放処分を受けた。
こののち宗義布教に東奔西走し、各地に布教所を開設して顕本法華の教線を拡張して実力を増すや、『仏教各宗綱要』解説問題が起って僧籍を復されその任に当った。
この解説から「四箇格言問題」が惹起し、彼は他宗の教義に戦いを挑み、日蓮主義を高揚するのである。
この、宗務総監に就任し、「顕本法華宗」宗名公称許可を得て、宗門の第一人者となった。
明治三八年(一九〇五)には管長に当選、三九歳。
以後二一年宗門を統率する。
その布教伝道・社会化・門下統合に尽力し、超人的活躍を続けている。
一般社会に日蓮主義を広めるために、明治四二年天晴会を組織、女性のために地明会を、更に浅草に一般布教講演道場として統一閣を建設し、軍人、政治家、名士を続々信徒にして社会問題にもたずさわり、大正期労働争議が起るや労働者善導の名目で自慶会を創設。
対社会的な策推進の意図をもった知法思国会も起して共産・無政府主義の攻撃運動も展開している。
団内では「立正大師号追諡」を実現し、立正大学清水龍山本尊論争を行って独特な本多学を構築していった。
それは法華経中心の釈尊本尊論による日蓮学の再編成であった。
残された著述も膨大で、主なものには『大蔵経要義』『法華経義』『日蓮聖人聖訓要義』『本尊論』『日蓮主義綱要』等がある。
昭和六年、六五歳の生涯を閉じたが、妙寺での本葬には有名な政治・軍人・学者ら多数が参列し、日生の傑としての一生を如実に証明していた。
《磯部満本多日生上人』、『国史大辞典』一二巻「本多日生」の項、西山茂『近現代の法華運動と在家団』(春秋社『シリーズ日蓮』四)

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