顕本法華宗
顕本法華宗
けんぽんほっけしゅう
顕本法華宗は京都市左京区岩倉幡枝町の妙満寺を総本山とする。
開祖は日什大正師、または玄妙阿闍梨日什という。
日什は日蓮聖人滅後三三年の正和三年(一三一四)会津黒川に生れ、一九歳の時に比叡山横川上智院慈遍僧正に師事し賢明といった。
後玄妙と改名。
日什は会津黒川の出身である日尊門下の日印と交際するようになり、自然と聖人の所説に感じ、日什三八歳ごろ「先づ三和尚、富士山大石寺日興の余流日目、日尊、次に日尹と申す人に初め御同心」はしたが改宗には至らず、五八歳で隠遁の志を起し故郷会津に帰り、迎えられて羽黒山東光寺の住職となる。
門下の学生が持っていた『開目抄』『如説修行抄』をみて随喜し実成寺や中山を尋ね、更に真間弘法寺には学匠の多い事を聞き、門下の俊英六人(日仁、日穆、日金、日義、日全、日妙)と共に真間弘法寺の日宗に勉学の許可を求めた。
許可を得て日什と改名、時に六七歳(一三八〇)であった。
日什は日宗の請により同寺の学頭となった。
日什は聖人百回忌に当り上洛し、六条坊門室町の天王寺屋通妙の家を宿所として、永徳元年四月、奏聞すべく妙顕寺日霽を訪れ奏聞を依頼、管領斯波義将更に関白に謁し、聖人の立義法門の大要を述べ、後円融院より洛中弘法の綸旨ならびに二位僧都を賜わった。
以来日什は諫訴の一生であった。
中山との訣別は第三回上洛のころである。日什の官途昇進、弘通の成果の華々しさ、また日什一門による中山の仏法の修行、本尊の勧請、受持作法の雑乱に対する不満は、弘法寺の門徒まで日什に同調して中山を非難したので、日尊は遂に日什に行動の制限を加えた。
日什が第三回の諫奏の文に「関東鎌倉埋橋本興寺住、二位僧都日什と申す法華の僧」としているところや、嘉慶二年(一三八八)八月の日什が弟子日妙の一周忌法要の時の諷誦章の裏に書いた置文に「日什門徒等存知すべき事、(略)一、門徒中、意得べき事、大聖の御門弟六門跡、並びに天目等の門流、皆方軌弘法共に大聖の化儀に背く処あるによって同心せざる処也。
直ちに日什は仰いで日蓮大聖人に帰する処也。
門弟等深くこの旨を存ずべき者也。
但し下総真間に於て帰伏の状並に起請文あり。
然りと雖も法門並に方軌大聖の御義に違うによって捨て申す所の者也。
是れ捨悪知識の質(すがた)也。
右日什の門弟等この旨を尋守るべし。
この旨違背の輩に於ては謗法堕獄の罪過たるべし。
よって後日のため置文状件の如し。
嘉慶二年戊辰八月二十五日、二位僧都日什 花押」とあるのは、日什門流の独立宣言である。
康応元年(一三八九)七六歳で京都六条坊門室町の草庵を妙塔山妙満寺と名づけ、布教の道所とした。次いで七七歳、七八歳のとき諫訴や庭中をしたが義満は申状と目安は受け取り、『立正安国論』は返して来たので、「三度諫めて隠れるとは聖賢の教え」と日什もまた帰国の心を起し会津に帰り、七九歳にて遷化した。
日什の後も布教諫暁は続いた。
応永五年(一三九八)日什七回忌には直弟日仁、日運、日実らは庭中を計画し目安、申状を用意し、奉行管領らを通じ法義をのべること前後二〇回に及んで洛中の評判となり、将軍に直訴して受難した。
また日運は応永一〇年四月清涼殿において後小松天皇に『立正安国論』を上呈した。
妙満寺一〇世日遵は折伏伝道の師で品川妙蓮寺を始め、数十ヵ寺を創立し、妙国寺、西福寺を改宗させ、一六世心了院日泰(一四三二-一五〇六)は本行寺を興し、千葉浜野の酒井定隆を教化し領内全部に法華経を信じるよう触を出させた。
本山二七世常楽院日経は慶長法難の中心人物で、受難の後も生涯五〇余ヵ寺を建立している。
寛永一九年(一六四二)に将軍家光は品川本光寺に遊んだ。
住持日啓は増上寺意伝と念仏無間の問答をし意伝を破折した。
これを品川問答という。
また万治三年(一六六〇)会津妙法寺日尚は日経流の強義(日什古正義)を弘めたとして三宅島に流された。
この時出家一〇人、俗四人が受難した。
更に元文三年(一七三八)にも行信が日経流強義を布教して八○○余人の信者を得たが訴えられ三宅島に流罪された。
その他浄源院日定、安国院日徳、常光院日明や信男信女の日経系僧俗は数知れず法難に殉死した。
そこで彼らは潜伏し内証に命がけで信仰を守り、法宝聖教を護持した。
これを「内証題目」という。
その地域は村田・野田・大田・柴名・弓渡・南横川・富田・長国あたりであり幕末まで続いた。
その他学僧とその著書には三二世乾竜院日乗の『信行道義』『流通搜玄記』、寂光寺本昌院日達の『置文諷誦章』『十師略伝記』、九二世合掌阿闍梨日受の『本迹自鏡篇』、寂光寺永昌院日鑑の『示正篇』『妙宗処中弁』などがある。
明治になり廃仏殿釈を受け仏教全体が沈滞したが児玉日容、小林日至、本多日生らの名僧が出た。
昭和一六年(一九四一)戦争のため日蓮宗、本門宗と共に合同し、日蓮宗となったが昭和二二年四月、日什門流は再び独立し顕本法華宗と公称した。
全国寺院二二四ヵ寺、信徒約一〇万を数えている。
《立正大学日蓮教学研究所『日蓮教団全史』上、『日本仏教基礎講座・日蓮宗』、『日蓮辞典』「顕本法華宗」の項》