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慶長法難

けいちょうほうなん #2223

慶長法難

けいちょうほうなん

慶長年(一五九六-一六一五)において常楽院日経(にちきょう/にっきょう)らの受けた法難及びそれに伴って起った日蓮団の受難をいう。
慶長年勝劣派日什門流の日経は諸方に弘通したが、同一三年(一六〇八)九月、尾張国愛知郡熱田(名古屋市熱田区)に布教した。 ときに、浄土宗正覚寺の僧俗が日経の談義を妨害するに及び、日経は同寺の綽(沢)道に問難した。 この結果、日経は幕府に訴えられた。
幕府は、日経を江戸に召喚して、同年一一月一五日に江戸城において問答を行うことを命じた。
江戸に到着した日経らは蟹町に宿をとったが、宗論の行われる前夜、暴徒に襲われ、瀕死の重傷を負わされ、宗論を行うことのできない状態に陥った。 同行の弟子たちは、暴徒襲撃による日経の負傷を由として、宗論の延期を願い出たが、認められなかった。 このため、日経は城中に入らざるを得なく、重傷の身では発言もできず、浄土宗側の問者廓山・了的らの問いに答えることのできないまま、宗論は浄土宗側の一方的な勝利と決定した。
日経の敗因を作った暴徒襲撃が、勝利を得ようとした浄土宗側の画策や指嗾(しそう)によるのか、日蓮宗抑圧を企てた幕府の手の者によるのかは判明しないが、これを契機として徳川幕府が日蓮宗を抑圧していったことは明らかである。 織田信長による安土宗論と同型のもので、かつ意図も同じであるとしてよいであろう。
幕府は翌一四年正月、日経と五人の弟子を京都へ上らせ、六条河原において彼らを刑劓(じぎ)(耳や鼻をそぐ)の刑に処した。
これを慶長法難という。
しかし、日経はこの処刑にもめげず、なお弘通の歩みをとどめなかった。
この法難は、日蓮宗の強義折伏的な態に対する幕府の抑圧政策から出たものと考えられる。 したがって、作為的な日経の敗北と日経らの京都での処刑は、江戸およびその周辺、京都とその周辺、すなわち東と京畿の日蓮門徒への見せしめのためであったといえよう。 日経のみならず、幕府は日蓮団の抑圧を策したのである。
これを示すのが、慶長一三年一二月一一日における徳川康の、身延・池上等関東諸本寺および京都諸本寺に対する誓状提出の命令であった。 この誓状とは、日蓮門徒のいう念仏無間の文証は経典や注釈書にないことの確認書である。 同年一一月一五日の日経の宗論敗北を踏まえてのことである。
この結果、諸本寺は「念仏を申さば地獄に堕つという名言は、経釈中にこれなく候。祖師の立て候ところの義に任せ候、御前に然るべきよう、御披露を仰ぐところに候」(原漢文体)との誓状を提出している。
これを聞いた貴族の一人は、渡世のためこのことなるかとの感想を漏らしているが、渡世=団安泰のための誓状提出であった。 しかしこの身延久遠寺日遠は誓状提出に反対したばかりでなく、浄土宗と問答することを要請した。
これを聞いた康は、怒って日遠を死刑に処せんとした。 康の側室で日遠に帰依していた養珠院は、日遠の死刑が実現すれば、自らも命を絶とうとの意志あることを康に示した。 そのため、康は人を介して日遠を説得させて誓状を提出させたといい、日遠は久遠寺住持を辞し、近傍の大野に隠退したという。
慶長法難とは、狭義には常楽院日経らへの弾圧を意味するが、諸寺の誓状提出、日遠の抵抗と挫折等も含み、慶長一〇年代における日蓮団への弾圧としてよいであろう。
そしてこの法難もまた、近世日蓮団に摂受的あり方をとらせていったのである。
《『身延山史』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、宮崎英修「慶長法難」『日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』「慶長法難」の項、『国史大辞典』一一巻「日経」「破邪顕正運動」の項

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