布教
布教
ふきょう
転法輪・広宣流布・談義・説法・弘通・説教などを指していう。
布教とは特定の宗教信仰を他の人々へ伝えるための教育行為。
(一)宗教について相手が知らぬことを教える、(二)各人の個性がもつ性能をさそい抽き出して十分発揮させる、(三)善良な言動を習慣づけてゆるぐことのない信念となるまで、長いあいだ繰返して教えこむ。
この三つの教育を布教に適用する。
日蓮聖人はこの方法を実践された。
(1)布教すべき内容=布教すべき内容は聖人の宗教である、その宗教は教と機と証と行とから成り立っている。
布教は聖人の教法を機に伝えて証を信解せしめ行の実践へ誘導して個人社会を啓発改進させ将来に光りと望みとを確立するのがその目標である。
(2)布教すべき教法=この教法は法華経の題名妙法蓮華経の五字、聖人はこれを一大秘法という、この法に敬順することを誓う言葉の「南無」の二字を加え、法華経後半の精神によってこれを本門の題目という。
この七字の本門の題目は釈尊一代に説かれた一切経の中の肝心であると共に法華経一部の肝心である、そしてこの肝心題目は教主釈尊の胸奥心内から出たもの、釈尊はこれを娑婆で最初に育成された弟子(本化)にさずけ、聖人これをうけてその門下を通じていま私共につたえられた。
この本門題目が含み持つ内容ははなはだ多い、およそ五項があげられる。
(イ)題目は一瞬間の心の内にもあらゆる一切を含み持つ(一念三千の道理)との精神が題目の底を流れている。
(ロ)一切の生類は善から悪まで一〇段階の心を持ち合わせている中の無上正善を仏性とし、あらゆる生類中の仏性だけを抽き集めた結晶体を以って題目とせられる。
(ハ)題目は私共の日常生活に方針と、情意を練成し教養の心得方を示す。
(ニ)題目は釈尊が永劫年間私共に代って積まれた修行の成果全部を五字の内へ包みさづけられる救済慈愛の力である。
(ホ)また題目は人を仏とする種子であるからこれを「仏種」と呼ぶ、これを見ればその目が仏となり、唱ればその口が仏となり、唱える声を聞けばその耳が仏となり、手にさわればその手が仏となり、心に念ずればその心が仏となる。
このような豊富な内容を持つ題目が本門肝心の一大秘法と呼ばれる。
これを人に伝えるのが布教である。
(3)教法を伝えるべき人=教えをうける場合の人を機という、機とは反応性のことで人は外部から与える刺激に対して受容か排斥か無関心かの反応を示すので、この場合に人を機という。
布教の対象である人は教を反撥するか受容するか或は無関心である。
この反撥排斥違背するのを逆縁者、受容するのを順縁者と呼ぶ、逆縁者には誤信誤解を矯正する態度をとるのを「折伏」、順縁者を穏かに誘導する態度をとるのを「摂受」という。
また釈尊の滅後二〇〇〇年間の人は何程か法華経の題目を耳目にふれた者もあるが、それ以後末法期の人は全く見聞しない(本未有善)から逆縁者が多いから矯正折伏の態度で臨むのが多いことになる。
しかし一方に受容者も年と共に多くなり順逆両縁者は並存し、摂折布教の態度もまた瞬間的にも並用する必要がある。
(4)証(さとり)とは=暗の中に電光を差入れたように成る程と気がつくこと、道理・真理が分かること。
聖人のさとりとは智慧で分別すると同時にかたく信ずる意味である。
凡夫のままのこの身(法身)で修養した善い力(報身)を世の人がわが身のために活用させて働く(応身)のを、三身完備の仏であると確信徹底するのがさとりである。
私共は凡夫体でありながら三身完備の仏でありうるのは、釈尊の広大無辺な慈悲救済力を包んだ題目をただ信じ念ずる(受持)だけで何の造作もなく極めて自然の内にいただくからである。
一般に仏教では修行をつんでから証るのが常であるが、聖人は仏の種である題目を聞信ずるのが仏の位の証り(証悟・覚悟)に入ったとする。
その以後の動きはも早や仏の行動であるから、寿量品に「所作仏事」と説き、これを「行道」とする。
また従来この世界はけがれた所で浄土は娑婆以外と考えられていたが、釈尊がわが仏位を達成したのは実の所久遠大古の事と宣言されて以後、釈尊は諸仏根本の師匠すなわち本師である。本師が居住するこの娑婆こそが一切世界の根本中心としてこれを「本土」という。
以上、凡夫体が一躍して仏であるわけ、その行動は仏の行いであること、その人達が住む世界こそが本土であるとするのが証である。
(5)行について=証者としての行に自ら宗教面としての信行と、社会面としての教養とがある。
従来仏教には道義修徳の為の戒学、精神の統制訓練の定学、見聞・思考・実修・決断訓練の慧学との三学があるが、時代の推移、機教の適不によって三学の内容も変る。
まずこの信行とは聖人は一大秘法の本門の一題目を行の対象として本尊・題目・戒壇に分けて三大秘法と呼び、その本尊を意に拝念するを定学、題目を口に唱えるを慧学、題目を身を以って信持し貫くを戒学としこれが聖人独特の新三学で信行。
次に社会面の教養は題目七字の法は生活、妙は開発・再生・完成・整治へとの生活方針。
蓮華は純白の花で欲濁の水中にありながらけなげな白蓮の如くあれと情操の高潔を堅持する尊さ。
経は以上の妙法蓮華の教え。
南無はこの教えを尊敬し信順すること。
このような内意ある題目として唱念ずるのが教養のための行。
(6)布教者の心すべき要項=聖人によって五つの項目が挙げられこれを五義という。
項目は教・機・時・国・師で、教は布教すべき教法の一代経の肝心一大秘法の本門の題目、機はその心に全く仏種を持たぬ人々、時は無戒期の末法、国は印度より東方日本、師は当該布教者。
この五義は釈尊によって予定局限されてるとの強い確信を以って布教に当れとの指示項目である。
(7)布教史要=聖人滅後約七〇〇年間の布教の跡を概観すればほぼ次のよう。
まず布教の場所は身延、下總中山のように早く定着した寺院を除いて一般には處女地への開教だから、多くの場合路傍や空き家の庇し先や樹下や石上から、道行く人々へ教えが呼びかけられた。
次には信仰に入った人々の住宅が布教の道場にあてられ、やがてこの道場が一定した場所となったのが講演所または弘通所と呼ばれ、のちに発達して教会や寺院となった。
また布教者は多くの受難の経験から忍難布教に立ち向うべく異常な準備訓練がなされた。
日像(一二六九-一三四二)は帝都の開教を立願の初め寒中百夜由井ケ浜の海中に身を浸し自我偈百返読誦して忍力を試し、或は伊豆三島の開教を志した一乗房日出(一三八一-一四五九)は一七日礼拝一万度唱題一万返、三島弘通を成就せしめ給え悲願成ぜざればいのちを召して後生を助け給えと祈った。
また布教のための旅行を行化といい、足の向うまま縁に任せて法を説くのを遊行廻国といった。
信者の増加につれてその外護により次第に屋内の談義が多くなった。
けれども未開地への布教がある限り野外布教は後世まで続いた。
南北朝の終り頃、鎌倉から政教の中心が京都に移ると、京都は新宗教者の布教の中心となり、これに先鞭をつけた形の日像の妙顕寺につづく鎌倉本国寺の京都進出(貞和元年=一三四五)、中山・身延等の諸門流相きそって京都に布教し、それが三十番神の信仰と結びついて庶民化し、さらに遊行布教と地方有力な外護者とによって教えは聖人滅後一〇〇年を出ない内に東北から北海道、西南は中国・四国・九州など点在的ではあるが日本全土に普及した。
首府の京都の宗勢が応永七年(一四〇〇)頃禅宗に次ぐ繁栄ぶり、寛正元年(一四六〇)頃は京都市民の大半が法華経に帰し、文明の初め(一四七〇)頃「日本国に肩を並べる他宗はない」といわれ、文明一二-三年(一四八〇-八一)頃には市民の耳目を驚かす程の増加であって室町期中最全盛を極めた。
これが比叡山へ経済上の圧迫を与え、ついに天文五年(一五三六)の法難で京都の日蓮教団は一時壊滅状態となった。
戦国期に入って群雄治下に武運長久あるいは戦勝祈願修法効験による恩賞寄進の外護をえた。
織豊期は安土法難による弘通禁制に遭ったが短期間で公許の恩命に与り、また京都を追われた教団は泉州堺(大阪府)に退避したが、堺出身の日珖(一五三二-八九)は妙国寺を創立し、そこに精力的な布教を展開して広く士庶の帰依をえ、また世の治平と共に京都教団の復興も進んだ。
日珖は比叡山に学び妙国寺で弘めたものは天台の書と法華経の講説とであった。
この点室町期迄の破邪折伏の態度で題目宗義の顕正を布教したのとは相違する。
祈祷修法の方法によった布教効果を一般に示し始めたのは天正年間(一五七三-九二)頃からで身延の積善坊日閑(一五〇四-一六〇一)は孤貧者を救い改宗者一万人と称せられる。
中山の貫首一人相伝の修法も、この頃開許せられ京都の教行日受(一五一三-九八)は家康の娘督姫の病悩を救い京都伏見の本教寺が創立された。
江戸期前半の布教は身延の日乾(一五六〇-一六三五)、日遠(一五七二-一六四二)、日暹(一五八六-一六四八)共に学徳兼備、特に日暹は富楼那の弁才を以って聞え、祖山を背景に布教効果の深大さは測り知られぬ。
本寺格の貫首一般に深信碩徳の名匠少なからず、農商庶民は勿論高徳博識は公貴の縁を招き、京都妙伝寺法性日勇(一六〇四-五〇)は西洞院時直の第二子、同じく妙覚寺尊賀日延(一六一三-八四)は伏見宮邦房親王の子など。
加えるに深信雄弁の京都立本寺日審(一六〇七-六六)は説法二万余座受法者九万余人、徳化は広く、門下を誡めて弘通の要は信仰にあり平等の慈悲を学べと、この門に出た江戸深川浄心寺日念(一六三四-一七〇七)また説法二万余座の記録をもつ。
文治幕府の保護のもとにこの他多くの回国行化や住化の活躍布教の効果は、江戸後半期の空前の隆盛として現れた。
僧教育のための檀林(学校)でも布教は重視せられ、ほぼ中学修了ころの一二-一五歳の生徒に高座説法の試験を課する。これを「新談義」または「新説」といった。
受験後ただ一回だけ故郷と恩師の寺で説法が許される。
檀林の助教授格の人でも本寺の許状を得なければ説法が許されぬと厳重に取締まられた。
けれども一般に熱誠で達弁な数千座数万座の高座記録を挙げた布教者が実に五〇余名にも達した。
祈祷修法による布教の方も身延積善坊流は心性日遠の協助で通妙日隆(一六三二-一七一〇)、満行日順(-一七〇〇)、一道日法(一六五九-一七一九)、一円日脱(一六二六-九八)に至っては新たに身延に祈祷堂を建て三六坊僧を昼夜不断安全広布を祈念せしめた。
また中山も遠寿院日久(一六六三-一七二七)の努力によって次第に加行(けぎよう)(祈りの修行)者が増して験者が視聴にふれ始め中山にも祈祷堂が建てられた。
江戸期の央に至ると従来の頻度な談義布教に信解はふかまり、修法による安堵心から題目衆の増加となり、元禄・宝永(一六八八-一七一一)頃身延中山その他の諸寺は頻りに「出開帳(でかいちよう)」が催され、その期間興行で徹夜の賑わいに禁止令が出される程、また延宝・享保(一六七七-一七一〇)の間に身延中山伊豆玉沢(三島市)熊本本妙寺などに唱題専用の堂(常唱堂或は常題目堂)が設けられた。
また城下町制の寺院所在地は戸籍管理が目的で、信者の参詣には不便であったために至る所の信者の住宅で題目講が催されこれにも禁令が出され、江戸市内の身延池上中山など関係の講中も中山は元文五年(一七四〇)二六講、玉沢妙法華寺は宝暦六年(一七五六)一三講、池上は天明八年(一七八八)三九講が数えられ、地方諸寺にも寺所属の講中が見られ、この激増は前期布教の成果である。
信者講中の増加は身延始め地方諸寺からの江戸出開帳を企てさせ、その二〇-三〇日間にわたる内の高座説法は布教上話技に工夫せられるは自然、態度が劇化し話語の繰り弁となるも当然。
ただ文治の幕制と時勢の平穏化から布教態度が摂受化と、檀林教科組織上宗教信解ある布教者が減少したこと、並信矯正の途を失った。
思いをこの点に寄せた先覚者一妙日導(一七六四-八九)、本妙日臨(一七六七-一八二二)などが警鐘を打って、宗義の顕揚に努めた。
明治期前半の布教は新居日薩(一八三〇-八八)、田中智学(一八六一-一九三一)、本多日生(一八六七-一九三一)らの活躍。
日薩は僧俗の信仰統制と宗義の再教育とに尽力。
明治七年(一八七四)妙法講社規則を定め東京で一〇数年間毎月三夜会合宗義信行を講話、各地方に支部を設く。
また寺僧への宗義再教育には東京大阪などの教区内の寺で講習会を開き、『本門宗義鈔礼誦儀記』を教科書としこの会を「交審学校」と呼んだ。
また道心の養成は幼童からと「沙弥校」を企て明治一六年池上永寿院に開いた。
また布教に関心をひき衆智を集むべく翌年布教対策会議を催し、布教作法工夫についても明治一三年、浅草善立寺で当代第一流の名布教者智境院日進(一八二〇-九七)、玄妙院日慧(一八二三-一九〇〇)を屈招し月並説教実習を指導。
「妙法新誌」を発行して文書布教した。
田中智学が大阪に「立正安国会」を開いたのは明治一七年(一八八四)、布教態度は日薩が摂受的であったに対し、田中・本多は祈伏、宗義顕正面は全般に格段の発達。
また佐野前励(一八五九-一九一二)は時を同じくして共に布教の積極化に著大な功績をのこした。
本多はその布教の極点を宗義布教所と呼んだのは布教の重点を宗義の鮮明に置いた事が注目され、佐野は一五ヵ年回国幻灯布教により博多に高さ三〇(メートル)の聖人銅像を造立、また日清戦争後、韓国へ日蓮教を下種すべく法華経、立正安国論を王室へ献進、農民救助国土開拓のために北海道小利別(しょうとしべつ)に法華経村建設など。
国威の伸張につれて布教地域の進出として明治二五年、旭日苗(一八三三-一九一六)は初めて海外宣教会を組織。
田中智学の感化で入信した文豪高山樗牛(一八七〇-一九〇二)の聖人鼓吹は青年学徒知識者に広く日蓮鑽仰の催しを開かせた。
同三六年、田中智学は三保(静岡市清水区)の最勝閣で本化宗学大会を開いて青年有志の間に宗義の素養を植え日蓮宗では東京大崎の日蓮宗大学林内に布教師養成所を設け、のちこれが布教院と改名今日に及ぶ。
大正の初め磯野本精、北尾日大らにより宗義宗史の著書が刊行。
従来の講中は会組織となり天晴会、地明会と名づけられ各地に結成。
講習会の開催により信仰宗義が着及。
宗門主催の中央布教講習会は大正六年(一九一七)第一回以来二〇回をかさねた。
同一一年、聖誕七〇〇年に立正大師号の宣下、これに奉答と聖人六五〇遠忌予行布教とを兼ね総監岡田教篤は布教監塩出孝潤に布教旗を授けて激励、山田一英は活動写真利用の布教を始む。
大正終りから関東震災を動機に無政府主義思想と新興宗教勃興があり、日支武力衝突と内外多事の内に六五〇遠忌を迎えた。
昭和九年(一九三四)管長神保日慈は布教献金制をしき映画布教班を設け、同一一年、布教・修法両会員の連合隊を数年間全国に動員し、浄心行唱題行打鼓等の指導は挙宗一致せしめた。
青年僧の信行育成のために身延に信行道場が出来たのは翌年。
新興宗教の拡勢に備えて二八年、布教対策委員会を、立正大学は日蓮教学研究所を設け、三五年、精鋭有能な布教師の養成を目指して毎年布教研修所を開いて現在に及ぶ。
《影山堯雄編『中世法華仏教の展開』、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』、影山堯雄著『日蓮宗布教の研究』、同著『日蓮教団史概説』、『遺文辞典』教学篇「布教」の項》
(影山堯雄)