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談義

だんぎ #4794

談義

だんぎ

日蓮聖人が採られた布教の方法で、口唱の題目運動と相並んで行われた重要な方法を談義と呼んだ。
この語の意義は、教のあるべき筋道を説き聞かせることであって、唱導ともいい、鎌倉時代の主要な布教方法であった。
聖人談義は伝えようとするえの筋道を口述することから始まった。
そしてこの口述談義と同じ趣旨のことが筆述されて、いわゆる文書による布教方法がとられ、これは多くの遺文となって遺されている。
談義を中心とする聖人布教は、それまでの信仰の在り方とは全く異質別趣ともいうべき法華経絶対主義に立つものであり、しかも、強烈な択一性を保有するところから、当時の界を大きくゆさぶったと同に、その反撥にも厳しいものがあった。
聖人の諸宗派に加えられた批判は実に厳しいものがあり、それと共に顕正面の実動もまた盛んであった。
これらは唱題運動と共に談義を中心とする聖人の執拗な布教方法であった。
松葉谷小庵を根本道場とした談義による布教の集会は、文永三年(一二六六)、四年頃から大師講と呼ばれた。
これは台智者大師に対する教恩報謝のために、大師の御影(画像もしくは木像)を安置し、それを中心に読経し談義する行事で、教義の信解を深めることを目的とする重要な布教上の行とされた。
これが文永六年ころには弟子や信者の宅で、月一回恐らく大師の命日の二四日に、順番でその宿をつとめた。
大師講開始以来およそ四年後の文永七年一一月二四日の講の如きは、これまでにない盛会であったことが『金吾殿御返』(定四五八頁)によってわかる。
このような方法で、聖人線はしだいに伸びていった。
それはあたかも樹枝状的とでもいえる姿であった。
因に布教の主要な部面として採られた談義が特に大師講と呼ばれたのは何故であろうかということについては、聖人の教義の根拠が法華経にあり、その解説書として最高の定評のあるものが天台大師の法華三大部にあることなどによるものであろう。
こうして「大師講」は鎌倉における日蓮一門の信心練磨、連帯・結束をもたらす要の組織として機能したが、文永八年の法難はその運営を途絶えさせた。これを受けて日蓮聖人は佐渡の配所から種々に指令し連絡する中に「また小僧達、談義あるべしと仰らるべく候」(『富木入道殿御返事』定五一七頁)と談義の肝要を伝言している。後年、身延の日常のさまを「一乗談義の言、山中に聞ゆ」『忘持経事』定一一五一頁)といい、「十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」(『曽谷殿御返事』定一六六四頁)と述べ、あるいは衣食の窮乏にことよせて「衣食乏少の間、読経の声続き難く、談義の勤め廃しつべし」(『道場神守護事』)といっている。これらは、日蓮聖人にとって「談義」活動がいかに枢要であったかを告げている。
《『遺文辞典』歴史篇「談義」の項》

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