天台大師
天台大師
てんだいだいし
(五三八-五九七)
本名は智顗ちぎ。
中国天台宗の開創者であるが、後世、師系を述べて〈北斉慧文-南岳慧思-天台智顗〉と称し、天台宗第三祖とする。
中国荊州華容県(湖南省岳州府華容県)に生れた。
父は使持節散騎常侍益陽県開国公であったとされる陳起祖、母は徐氏。
その第二子である。
姓は陳氏、字は徳安、幼名は王道(あるいは光道)といった。
梁の武帝大同四年生れ。
七歳にして好んで近隣の伽藍に赴き、諸僧から普門品の口授を受け、一遍でこれを誦持したという。
梁国は元帝の承聖三年(五五四)侯累の乱によって国乱れ(孝元の敗)、親属も流徒し、父母もこの間に没したので出家の志を立て、一八歳で湘州果願寺の法緒の門に入って出家した。
次いで真諦の門人慧曠について律蔵を学び、兼ねて方等経に通じ、のち太賢山に入り、法華・無量義・普賢観の諸経を誦し、二旬にしてその深義に通達した。
陳の文帝の天嘉元年(五六○)、当時、北地の難を避けて南渡し光州の大蘇山に仮寓していた慧思のもとに赴いたが、ときに慧思は智顗を見るや「昔、霊山において同じく法華を聴く。宿縁の致すところ今また来れるか」と述べて邂逅を悦んだと伝えられる。
かくて慧思は大師のために普賢道場を示し、四安楽行を説いた。
大師は慧思のもとにあって専心に修行したが、ある日、法華経薬王品を読み「是真精進是名真法供養」の文に至って豁然として開悟した。
後世、これを「大蘇開悟」といい、薬王菩薩の示現と見られるに至った。
これよりは慧思に代って講莚を張り、更にその付嘱を受けて陳臨海王光大元年(五六七)三〇歳にして金陵に入り、三二歳にして金陵の瓦官寺において法華経題を説き、また禅法を弘めた。
因みに師の慧思は光大二年(一説、元年)六月、大蘇山を去り南して南岳(衡山)に入った。
師が瓦官寺で開講するや、朝野の帰崇篤く、陳の始興王、僕射徐陵、尚書毛喜等争って大師の門に参じ、諸宗の学匠碩徳もまた講を聴いた。智辯、僧晃、警詔、大忍、慧栄らがそれである。
後世、この開講の年である太建元年(五六九)をもって天台宗開宗の年としている。
大師は次いで『大智度論』を講じ『次第禅門』を説き、金陵に居ること八年を経たが、時を経るにつれて聴法者は増加するが、真に得道する者の少ないことを慨嘆して、陳の宣帝の太建七年(五七五)九月、天台山に入り、仏隴峯の北に寺を建てて住した。
世に天台大師と称し、その宗旨を「天台宗」と称するのは、大師の本名を直接呼ばず、山名をもって尊称したことによる。
大建九年宣帝は勅して始豊県の調を割いて衆費に充て、また両戸の民を蠲して薪水を給せしめ、翌太建一〇年五月には天台山仏隴道場に「修禅寺」の額を賜わった。
大師はまた六三所に放生池を設け『浄名経』及び『金光明経』を講じたが至徳三年(五八五)四月、陳の後主は大師を太極殿に屈請して『大智度論』を講ぜしめ、更に同年九月には同じく太極殿で『仁王般若経』を講ぜしめて七夜千灯を点じ、また後主自ら光宅寺に行幸して、大師がこの寺で『仁王般若経』を講ずるのを聴聞して捨身供養を行った。
この年、勅によって再び金陵に出た大師は霊曜寺、光宅寺、宮中太極殿等で『大智度論』、般若、法華等を講じた。時に僧正慧恒、僧都慧曠らは大師を質問攻めにしたが、大師は自若としてこれらの難問に接して法門を啓発し、衆僧は皆これを讃嘆したという。またこのとき大師は後主を諫めて僧尼を犯罪容疑者として検括することを止めさせた。
なお翌至徳四年(五八六)二月、陳の太子は大師を請し菩薩戒を受け千僧齋を設け、更に翌禎明元年(五八七=五〇歳)には、大師は再び光宅寺において『法華文句』を講じた。
禎明三年即ち隋の開皇九年、文帝は遂に陳の地を平定したが、大師は陳末の兵乱を避けて、荊州、湘州を歴渉し、盆城を経て廬山に休息した。
次いで開皇一一年(五九一)隋の文帝の太子である晋王広(のち煬帝)が楊州總管となるや、晋王広の請により楊州において彼に菩薩戒を授け「智者」の号を賜わった。大師を「智者大師」とも呼ぶのはこれによる。
なおこれは同年一一月のことである。
翌開皇一二年大師は楊州を辞して廬山に還り、講を開いたところ、聴衆は五〇〇〇余人も参集した。
同年一二月、大師は荊州当陽県玉泉山に入って寺を建て、一三年(五六歳)四月には玉泉寺で『法華玄義』を説き、七月には文帝から「玉泉寺」の勅額を賜わった。
翌年四月、更に玉泉寺で一夏九〇日間にわたって日々朝暮二時に『摩訶止観』を説き、一五年には晋王広の請を受けて金陵に行き『浄名義疏』を撰し、次いで天台山に帰り、予め死期を知り、諸弟子に『観心論』を口授した。
一七年一一月、また晋王広の請に応じて山東の石城山に到ったが、たまたま病を発したので、書を王に贈って大法を依嘱し、二四日、病革まるや人をして法華経と『無量寿経』を唱誦せしめ、自ら十如、四不生、十法界、三観、四無量、四悉檀、十二因縁、六度等を説き、また質問に応じて自ら五品内位に位することを告げ、門徒に遺誡し、端坐して寂した。
時に年六〇歳。
弟子等は遺骸を奉じて佛隴道場に帰り、佛隴峯の西南に葬った。
大師は生前、寺を造ること三六所(あるいは三五所)、一切経を写すこと一五蔵、仏像を造ること一〇万体(あるいは八○万体)、僧を度すること一〇〇〇余人、業を伝えた学士三二人といわれる。その中でも灌頂、智越、智操は最も有名である。
翌一八年正月、晋王広は大師の遺図により山下に寺を建て、のち大業元年(六〇五)正月、晋王広が即位して煬帝となり、その一〇月、この寺に勅して国清寺の額を賜わった。
更にのち後周の世宗(九五四-九五九)の時、法空宝覚尊者と諡し、南宗の寧宗慶元三年(一一九七)には霊慧大師と加諡された。
著書は『妙法蓮華経玄義』『同文句』各二〇巻、『仁王護国般若経疏』五巻、『維摩経略疏』一〇巻、『同玄疏』六巻、『金光明経文句』六巻、『観音玄義』二巻、『同義疏』二巻、『金光明経玄義』二巻、『菩薩戒義疏』二巻、『金剛般若経疏』一巻、『観無量寿仏経疏』一巻、『阿弥陀経義記』一巻、『請観音経疏』一巻、『摩訶止観』二〇巻、『釈禅波羅蜜次第法門』一二巻、『四教儀』一二巻、『法界次第禅門』六巻、『四念処』四巻、『三観義』二巻、『修習止観坐禅法要』一巻、『六妙法門』一巻、『天台智者大師禅門口訣』一巻、『観心論』一巻、『釈摩訶般若波羅蜜経覚意三昧』一巻、『方等三昧行法』一巻、『法華三昧懺儀』一巻、『浄土十疑論』一巻、『五方便念仏門』一巻、『禅門章』一巻、『禅門要略』一巻、『観心食法』一巻、『観心誦経法』一巻、『天台智者大師発願文』一巻、『普賢菩薩発願文』一巻(以上現存)。
『智度論疏』二〇巻、『弥勒成仏経疏』五巻、『観心十二部経義』『観心釈一切経義』『弥勒上生経疏』『釈一切経音義』『般舟行法』『雑観行』『入道大旨』『七方便義』『七学人義』『一二三四身義』『法門儀』『四悉檀義』『如来寿量義』『請観音行法』『南岳思禅師伝』『般若玄論』『金光明懺法』『修三昧行法』『観心遊心口決記』各一巻(以上散佚)等がある。
これら現存三〇余部の著述は概ね門人の灌頂が筆録したもので、大師が直接執筆したものは少なく、またこのうち『観無量寿仏経疏』、『金剛般若経疏』、『浄土十疑論』等は真偽未詳といわれ、また散佚した書目の中にも後人が撰述したものも少なくないであろうといわれている。
また門人の灌頂、法論、智果及び法琳らはそれぞれ大師の別伝を選述したといわれるが、現存するものは灌頂の『隋天台智者大師別伝』一巻だけであり、この書は大師伝の史料として最も重視されている。
日蓮聖人は天台大師の『玄義』・『文句』・『止観』の三大部を土台として法華信仰を立て、『玄義』の五時八教、『止観』の一念三千は殊に重視されたところである。
従って聖人は天台大師を三国四師の一人として尊崇された。
《『隋天台智者大師別伝』、『国清百録』、『続高僧法伝』一七、『大唐内典録』一〇、『止観輔行伝弘決』一、『弘賛法華伝』四、『天台山記』、『天台九祖伝』、『仏祖統紀』六・二五・三七・三九・四九、『智者大師別伝註』、『天台霊応図本伝集』、『新編諸宗教蔵總録』、『天台宗章疏目録』、『東域伝燈目録』、『天台智者大師別伝新解』、『遺文辞典』歴史篇「智顗」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「智顗」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と天台大師・妙楽大師」の項、小松邦彰・花野充道『法華経と日蓮』(春秋社『シリーズ日蓮』一)》
(野村耀昌)