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妙楽大師

みょうらくだいし #1531

妙楽大師

みょうらくだいし

(七一一-七二八) 中天台宗第六祖荊渓尊者湛然のこと。
唐の睿宗代、景雲二年に生れ、唐の徳宗代、建中三年七二歳で没した。
湛然は晋陵の荊渓に生れ、幼少より儒を習い、児童のなかにあっては超然として邁俗の志があり、他と異るところがあった。
一七歳(または一八歳)のとき、浙東に道をたずね、金華芳巌和尚に遇って門を授けられ、更に開元一八年(七三〇)には左渓玄朗に従学した。
左渓に従学してまもなく、湛然は処士服をもって教観の道をとき、学ぶ者は群流の川に会通するが如くであったという。
その後、宝七年(七四八)三八歳のとき僧籍に入る(この年代について異説がある)が、その後、湛然は曇一律師につき律を学ぶ。
そして、その後、呉郡の開元寺に止観を敷衍した。
湛然は天宝一四年生涯の労作となった『止観輔行』を第一期完成せしめた。
湛然四五歳のときであり、その場所は臨安であったと考えられる。
この年に安禄山の乱が起っている。
その後、至徳元年(七五六)台山清寺に『止観輔行』を再書し、次いで長沙・衡陽・蘇州等を旅行し、乾元から上元(七五八-七六二)にかけて毘陵に帰り、次いで宝応元年(七六二)浦陽に『止観輔行』を重勘している。
あくる応徳元年(七六三)朝義が亡ぼされ動乱が終結するが、その翌年、湛然は佛隴に『維摩略疏』を成立せしめている。
そして永泰元年(七六五)には『止観輔行』を完成せしめ、大暦九年(七七四)には五台山に往詣し、この頃に『法華文句記』を完成せしめた。
六五歳のときのことであり、かくして建中三年示寂している。
湛然妙楽大師と呼ばれるのは、何時の頃からか不明であるが、このように呼称される理由を考えるとき、湛然は智顗の『法華文句』を注釈して『法華文句記』を作成しているが、この作成の場所が、湛然の故郷である、常州の妙楽寺でなされたからと考えられる。
およそ乾元から上元年(七五八-七六二)にかけてのことであったが、これ以外に湛然のことを妙楽大師と呼ぶ由が判然としない。
なお『法華文句記』を指して妙楽と呼ぶ場合もある。
湛然はその生涯に多くの著作をのこしている。
三大部の註釈書を始め、『法華五百問論』『止観義例』『止観大意』『維摩略疏』『止観輔行捜要記』『金剛錍論』などである。
これら著作のうち、そのほとんどは、いわゆる智顗の文疏の註釈であって『金錍論』の一書のみが湛然独自の著作と考えられるものである。
従って、湛然は註釈であると判ぜられよう。
けれど湛然は決して単なる註釈家ではなく、智顗の天台教学を当時隆盛であった華厳、禪等の学派に比肩すべく、湛然独自の天台学を展開せしめていたのであって、この意味においては智顗の天台学とは異る、湛然台学が諸処に散見せられるのである。
日蓮聖人は『報恩抄』に「妙楽大師といふ人あり。天台大師よりは二百余年の後なれども、智慧かしこき人にて、天台の所釈を見明てをはせしかば」(定一二〇六頁)と法相宗・華厳宗・真言宗等諸宗の邪見をはらい、法華最勝を宣揚して天台の正義を回復した湛然の功績を称賛されている。
また湛然智顗が『摩訶止観』第五に説いた「介爾有心即具三千」の不可思議境に一念三千の名目を与え、これを「終窮究竟の極説」であるとした。
聖人は、『観心本尊抄』の冒頭に『摩訶止観』の一念三千をあげ、十界互具を論証して受持成仏を説示し、互具論を湛然の「まさに知るべし身土は一念の三千なり。故に成道の時この本理に称ふて一身一念法界に遍ねし等云云」(定七一二頁)の文で結ばれている(題目段の結文)。
智顗の理具論から釈尊の事具論へと互具論を展開し、その結文に湛然の三千論をあげるのは、理性具に約して事具三千を結成し、次の本尊論へ至る伏線とされたもので、このような論理展開のなかに天台・妙楽の一念三千に対する聖人の見解を窺うことができる。
《『遺文辞典』歴史篇「湛然(たんねん)」の項、『岩波仏教辞典』「湛然」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と天台大師妙楽大師」の項》

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