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本尊論

ほんぞんろん #3399

本尊論

ほんぞんろん

日蓮聖人入滅後における本尊に関する論議をいう。
論議の内容には、本尊解釈の原理論と儀相論・形態論との二方面があるが、前者に関連して本仏論・顕本論があり、後者に関連して人法本尊論・教観本尊論等が展開されたといえよう。
しかし前者においては、久遠実成の教主釈尊の普遍性や久遠の解釈等が中心となったのに対し、後者は具体的に礼拝対象の儀相が論議された点に特徴があり、一般的に本尊論と言えば後者を意味するとされている。
今日、信仰的実存の世界が問われているとき、前者の世界を追求することは大切なことであり、後者もそれに関わって論じられなければならないのであろうが、本事典には本仏論・顕本論等は別の項目にあるので、それらを参照されたい。
従ってここでは、後者の範囲を中心にして本尊論の展開について述べる。

本尊論の課題〕日蓮宗において本尊論が展開された中心課題は、大曼荼羅一尊四士一塔両尊四士の本尊の表現形態の違いをどのように一体的に捉え、解釈するかという点にある。
日蓮聖人佐渡流罪後、数多くの大曼荼羅を弟子・檀越に授与された。
しかし反面、日蓮聖人御自身は立像の教主釈尊像を随身仏として生涯にわたって奉持し、給仕され、入滅直前、弟子日朗に譲り与えることを遺言された。
そのほか、日蓮聖人富木常忍四条金吾日眼女らの請いを入れて、立像釈尊像の開眼供養を行っている。
こうした形態上の相違をどのように統一的に解し、また位置づけを行うかが問題となったのである。

大曼荼羅と木画本尊〕日蓮聖人が弟子・檀越に授与された直筆の大曼荼羅は、今日、一二〇幅以上が確認されている。
従って滅後失われたものがかなりあったであろうことを推測すると、相当数の大曼荼羅が授与されたものと想定される。
そのことは白蓮日興の『本尊分与帳』(『宗全』第二巻)、富木常忍の「常修院本尊聖教事」、浄行日祐の「本尊聖教録」(いずれも前掲書第一巻)等によっても知ることができよう。
そして、日蓮聖人滅後、大曼荼羅は聖人の直弟子からその弟子・檀越へ、その弟子はまた更に弟子・檀越へと筆写され、授与され、今日に及んでいる。
こうした伝統に対し、日蓮聖人滅後、数十年の後、絵曼荼羅化や木像化が試みられるようになる。
既に日興の「原殿御報」には「画工を招き寄せ曼荼羅を書いて」(『宗全』第二巻一七四頁)とあるが、日蓮聖人滅後三九年に当る元応二年(一三二〇)の日像等の大曼荼羅では、天蓋・蓮台・四天王の部分が画かれており、同年に遷化した日朗等の大曼荼羅(但し無年号)でも四天王画像となっている。
そして日蓮聖人滅後七六年の康永二年(一三四三)の大覚大僧正筆の大曼荼羅は、首題のみが大覚大僧正によって書かれ、その他の全諸尊が画像として画かれている。
このような絵曼荼羅は、その後、近世まで製作されている。
絵曼荼羅が初めて画かれるようになったのは、やはり本尊への帰命礼拝が美的装飾を伴うことを要請することに起因するであろう。
大曼荼羅の木像化も同様な要請によるものであろうが、更に堂宇の建設面積が大きくなって行くこととも関連があろう(時代は下るが、日蓮正宗大石寺の楠の板曼荼羅の作製なども同様の理由が基盤にあったであろう。日蓮宗において、板曼荼羅は紙墨の大曼荼羅の損傷を防ぐため造られたのであり、楠の板曼荼羅はそれを大型化したものだからである)。
ともかく一塔両尊四士が造立されたのは身延では日蓮聖人滅後四〇年頃とされるが、上限を確認できるのは、建武二年(一三三五)日蓮聖人滅後五四年である。
同年、浄行日祐は、中山の本妙寺(法華経寺の前身)の本尊として釈迦・多宝・四士(四菩薩)等の尊像を造立して身延に運び、身延山久遠寺三世日進の開眼を受けた上、本妙寺本堂に安置した(「一期所修善根記録」『宗全』第一巻四四五頁)。
このほか日祐は上総藻原寺(今の藻原寺)、下総古河妙光寺の釈迦・多宝の二尊供養の導師を勤めたが、のち康永三年(一三四四)日蓮聖人滅後六三年に日祐によって記された『本尊聖教録』に「打物題目 釈迦・多宝二尊像、並四菩薩各一体」(前掲書四〇七頁)とあるところから、中央に南無妙法蓮華経の中尊が奉安されたことが確認され、大曼荼羅の木像化が企図されたものであることが納得される。

一尊四士〕玉沢妙法華寺に蔵される説法図には、曽谷教信夫妻が日蓮聖人の説法を拝聴している左背後に、一尊四士が画かれている。
また白蓮日興の「原殿御報」に一尊四士造立が行われるまでは大曼荼羅を安置させよと波木井氏に書き送られている(『宗全』第二巻一七四頁)。
更に摩訶一日は永仁六年(一二九八)日蓮聖人滅後一七年、浄妙比丘尼を施主として一尊四士を造立させており(「造立本尊供養日記」前掲書第一巻三一八頁)、天目の『円極実義抄』にも一尊四士説が述べられている。
このように、既に日蓮聖人入滅直後から一尊四士の木像が造立されていることが分るが、浄行日祐は康永四年日蓮聖人滅後六四年、一尊四士を造立し(前掲書四四八頁)、池上本門寺にも開創の初めから安置されたという一尊四士が伝えられる。

本尊相伝〕大曼荼羅は『観心本尊抄』の教義によって図顕されたと理解されているが、大曼荼羅の具体的な解説は日蓮聖人遺文に見られなかったため、日蓮聖人滅後、その具体的な解説がもとめられ、日蓮宗諸本山に本尊相伝が形成され、やがて文献化されるようになる。
これらを集成したのが、祖山学院編『本尊論資料』である。
これらのなかには、『日朗相承』『日像記』『日像伝』『高祖談日興註』『高祖伝日常記』『日常直授』『日祐記』と称するものがあるが、代々口伝を相承し筆録したとして文献化されるのは、ほぼ日蓮聖人滅後一七〇年から一八〇年頃ではないかとされている。
これらを集成したのは、日朗門流の真如日住・自性日亨・玉林日東、日昭門流の玉沢自伝、日興門流の大石寺日有、日向門流の藻原流では日海・日生、日常門流の正行日源・本成日実・久遠成日親、身延山久遠寺では行学日朝・円教日意・宝聚日伝らの諸師であり、その相伝書は康正・文明・永正年(一四五五-一五二一)に成立したものと推定される。
これらの本尊相伝には、本尊本門八品の儀相とし、仏滅後二千二百二十余年未曽有の大曼荼羅であることを標榜しながらも、全体的には各部分の意義づけや筆法を述べ、結局、行者の心中に備わっている世界を観ずるための対境であることをいう点で共通しているようである。
そして時而真を強調し、一切の相差別の中に同価値的な意味づけを試み、観心釈による字訓釈や配当釈を乱用し、或は中古天台の三重七箇の口伝と結びつけ、理体本覚の思想から観心未分思想へ展開せしめているといわれる。

教観本尊論〕本尊相伝が儀相論を中心としたのに対し、心性日遠『当家本尊義落居』(『本尊論資料』所収)では教門の本尊・観門の本尊ということが問題になっている。
ち日遠は大曼荼羅の意味するところは久遠実成の釈尊という表現を超えたものであるとし、後者の教門本尊を超えて、前者は観門本尊であるとし、それを明示しようとした。
そこで、
昔の本尊阿弥陀仏等───他宗の本尊
迹の本尊─迹門の釈迦───天台宗本尊
本の本尊─久成の釈迦を本尊三秘の一本化を脇士とする┐
                                      ├ 当家本尊
観の本尊─題目を本尊とし二仏以下を脇士とする ─ 本尊鈔┘
というように、まず四重興廃によって、他宗に対して日蓮宗の本尊を定め、久遠の釈尊を本門の本尊とし、大曼荼羅を観心の本尊とする(以上『本尊鈔私記』による)。
それに対して『当家本尊義落居』では当家日蓮宗)の本尊に三種ありとし、
法華一部・題目を本尊
              ├門の本尊(根本尊崇)
本門釈尊を本尊 ───┘
十界本尊─行者心中の本尊─観門の本尊(本来尊崇)
とする。
つまり、題目本尊や釈尊本尊の教門の本尊とし、それに対して、大曼荼羅を観門の本尊とし、その重要を明らかにしようとする。
門は尊崇すべき重要を明らかにし、観門は行者中心に本来尊重すべき本尊を明らかにする。
かくして一尊四士(教主釈尊像を中心に四菩薩に付き従う相)を教門の本尊とし、大曼荼羅とそれを木像化した一塔両尊四士(題目を中心とし、左右に釈迦・多宝の二仏、それに四菩薩が付き従う)を観門の本尊と規定し、それぞれの勧請の形式の意味を明らかにしようとする。
なぜ、こうしたことが問題となるかと言えば、釈尊立像に系譜をひく一尊四士像は明らかに仏を中心とする形式であるから、一般に仏本尊(または人本尊)であるとよばれる。
それに対して、大曼荼羅やその木像化は、題目を中心とするところから、一般に法本尊とよばれる。
日遠はそれぞれの位置づけについて、仏本尊(人本尊)を教門本尊とし、また題目のみの、いわゆる一遍首題をも教門本尊とする。
それに対して大曼荼羅を観門の本尊とするのである。
日遠以後、このような論が展開されて行く。
そして吉田素恩「本尊法体論議変遷史」によれば、深草に元政日政が庵を構え、体内に法華経一部を収めた釈迦一尊を本尊とするに及んで、室町期以来行われた法本尊の考え方に否定が加えられる。
優陀那日輝の『妙宗本尊略辨』(『充洽園全集』第三編所収)では、眼前の迷惑・心底の迷惑・学問の迷惑(迷惑は迷い、思い違いという意味)によって大曼荼羅を法本尊と考えるのは大きな誤りであるとし、中央の首題は本仏釈尊であり、仏本尊であるとするのである。

〔近代の本尊論〕近代に入って大正年間に、田辺善知は『日蓮聖人の本尊論』を著して、人が法に如して人法一如となるように、法格によって成った人格こそが絶対性を発揮した本仏であり、それによって主観的己証の宗教が成立すると主張し、具体的には佐渡始顕本尊を称揚する。
本多日生は『本尊論』を著して、開目抄中心説を宗教学的説示によって展開し、人格的超越存在なる教主釈尊の救済を重視した。
そして、諸尊の別勧請雑乱勧請として批判し、久遠釈尊への帰命を純粋化することを提言・実践した。
それに対して、清水龍山は『本門本尊論』を著し、優陀那日輝の本尊論を祖述した。
これに対し、田中智学は『日蓮聖人の本尊』等によって佐渡始顕本尊を統一の本尊とせよと主張し、山川智応は『本門本尊論』を著して、その主張を補強した。
《『日蓮辞典』「本尊」「人本尊(にんほんぞん)」の項》
(渡辺宝陽)

図版

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