本覚
本覚
ほんがく
煩悩を次第に破して、覚りに達し、仏になるのを始覚というに対し、心の本性は本来覚りの性を具えているということを本覚という。
〔本覚思想展開の骨子〕本覚は日本中古天台(院政時代末期より江戸時代中期までの叡山教学を風靡した観心教学)の現実絶対肯定の思想を表示する術語として有名であるが、その起源は馬鳴作と伝えられる『大乗起信論』にあり、これを中国の華厳宗が研鑽して発展させた。
日本でこれを受継いだのは弘法大師空海で、更に『起信論』を龍樹が註釈したといわれる『釈摩訶衍論』を新たに導入して一段の発展を見た。
この東密教学を台密に導入したのは五大院安然で、台密教学を一切仏一仏・一切時一時・一切処一処・一切教一教と規定し、一切の理事を大日一仏と相即相入させたとき現実絶対肯定の思想は一応完結した。
また円珍・安然の頃登場した『蓮華三昧経』所説の「本覚讃」が本覚思想の展開に果した役割は大きく、中古天台の本覚思想は主として「本覚讃」を中心として成立した。
以上をやや細論すれば、『仁王般若経』『金剛三昧経』『大仏頂首楞厳経』『円覚経』等の五世紀から八世紀にかけての中国偽撰の諸経にも本覚の語が見られるが、そこに本覚なる語義が漸く中国仏教界に登場し始めた左証にはなるとしても、本覚思想の源流に位置するのは真諦訳(五五〇年)の『大乗起信論』である。
本論は人間の心を真如門と生滅門との二面から考察し、真如門では一心の本体である離言、依言の二真如を説き、生滅門では一心の現象である真如縁起を説くが、その中に本覚に関する言及がある。
つまり本覚は真如の随縁性の別名である。
そして「本覚の義は始覚の義に対して説く。始覚は即ち本覚に同ずるを以てなり。始覚の義とは、本覚によるが故に不覚なり、不覚によるが故に始覚ありと説く」というから、不覚・始覚・本覚の相関が説かれ、覚らない(不覚)から始めて覚る(始覚)ということがいえるのであり、内に本来覚りの性をそなえている(本覚)から始めて覚る(始覚)ことができる、初めて覚るとは本覚を覚ることであるという。
華厳宗の三祖法蔵(六四三-七一二)は『大乗起信論義記』を著して本論から真如不変・随縁論を吸収して『華厳経』の法界縁起の法門を補充したが、本覚については、『記』巻中において、本覚と真如門といかなる別があるかと問い「本とはこれ性の義、覚とはこれ智慧の義、これ皆妄染を翻じて顕はすことをなすを以ての故に、生滅門の中にあって摂す。真如門の中には翻染等の義なきを以ての故に、これと同じからず」と答う。
つまり本覚は衆生に蘊在する覚知性であり、妄染を取除いたときに顕現するものであるから、生滅門に属し、真如門の所属ではないというもので、能覚の智性であるから所覚の真如とは違うが、要するに内薫力の強い仏性と同義と見ていたと解して差支えあるまい。
縁起論系の華厳宗に対し、実相論系の天台宗では一・二の例外を除いて『起信論』を用いた例はなく、勿論本覚の用語例もない。
趙宋天台に至って漸く本覚の用例が増加する。
天台・妙楽においては本覚の用例はないが、本覚思想は円教と名づけられる思想体系の中にあったといわねばならない。
一・二例示すれば『法華玄義』二下の境妙で四諦境を釈するとき、円教の無作四諦とは菩提即煩悩=集諦、涅槃即生死=苦諦、煩悩即菩提=道諦、生死即涅槃=滅諦であると示す。
これと当体全是の本覚思想との違いは、これは理非造作の理性の世界であって、この性を全うするためには六即を登るための修が必要であるとすること、及び煩悩・生死も菩提・涅槃の発得を資成する意味において相即を論じたとする点にある。
また『摩訶止観』一上の章安序で三種止観を示す中の円頓止観において「円頓とは初めより実相を縁ず、境に造(いた)るに即ち中にして、真実ならざることなし(略)陰入皆如なれば苦の捨つべきなく、無明塵労即是菩提なれば集の断ずべきなく、辺邪皆中正なれば道の修すべきなく、生死即涅槃なれば滅の記すべきなし」云云とて無作の現状を是認している如くみえる。
中古天台はここから修行を忘却し、日常茶飯をそのまま止観修行として勧めるに至るが、今はこの無作絶待の境地を獲得するために四種三昧・十境十乗の観法の厳修を勧めるところに相違がある。
日本の伝教大師最澄(七六七-八二二)は法蔵の『起信論義記』『華厳五教章』等を研究しているうちに天台大師智顗の存在を知り(『叡山大師伝』)、その後入唐して七祖道邃および行満に天台宗を相承したのであるから、華厳教学を承知していたにも拘らず、真如随縁論は徳一との論争の至る所に展開するが、本覚については管見の及ぶところ次の二例にすぎない。
一は『守護章』巻上の弾麁食者謬破四教所説理章第五に「融文に云く(略)無作四聖諦とは即ち法華中の開仏知見なり、自身中の清浄本覚の真如智体を説くを仏知と名く(略)除障まだ尽きざるを名けて在纒と為す、本覚猶ほ隠る。除障尽き已るを名けて出纒と為す、本覚既に顕る」(『伝全』二ノ二三〇-一頁)と大薦福寺賓座主の「助照法華融文章」の語を引く時と、同章巻上の弾麁食者謬破三教不同章第七に、徳一が『華厳経』の初発心時便成正覚とは「十住位の初発心住の発菩提心の時、此の心の自性に自ら覚義あり」という意味であって、最初発心の時に究竟覚を成じたという意味ではないと述べた言葉尻をとらえて「此の心の自性に自ら覚義ありとは、此の覚本有なり」(同二八七頁)とて、本有覚の存在を許さぬ汝としては自己矛盾ではないかという。
この二箇所を見るのみ。
降って義真の『天台法華宗義集』に一箇所(日蔵四六ノ二九七頁)、円仁の『蘇悉地経疏』に一箇所(日蔵三二ノ四五一頁)、『己心中義記』に一箇所(日蔵四六ノ五四九上-五五一下)、安慧の『愍喩辨惑章』に一箇所(『伝全』三ノ三八八頁)、円珍の『講演法華儀』に一箇所(智全九一四下頁)と比叡山の上古における本覚の用語例は寥々としている。
その理由は一には徳一は真如は理仏性であって行仏性ではない、凝然不動の寂理であって一切衆生に悉有であっても衆生の成不とは関係ない、行仏性の有無こそが成不を決定する鍵であると説いて、五性各別説を弁護する。
最澄がこの説を破して一切皆成を主張するためには、衆生に遍満する真如理仏性は同時に行仏性でもあることを論証しなければならない。
そこで最澄は真如随縁論を提示し、円宗の真如観では真如は凝然不変であるばかりでなく、随縁変動する、寂理であるばかりでなく覚知性を有するから、理仏性の遍満を許すならば、行仏性の悉有も許さなければならぬことになるという。
つまり最澄の時点では本覚はまだ論証を要する段階であって、無前提に本覚本覚といえる段階ではなかったのである。
また最澄は真如の覚知性の面を本覚と称したまでであるから、その本覚とは真如の随縁性の意味に外ならず、従って『起信論』の綱格を出でず、中古天台のように不断煩悩不離五欲の凡夫のありのままを本覚の名において、当位不改のままで絶対肯定しようとする考え方からは遠い。
二に一方では空海が『釈摩訶衍論』を依用して本覚を一箇の法門として展開し始め、また既に奈良朝に南岳慧思の作として渡来した『大乗止観法門』では盛んに本覚を論じているのに、最澄及びその弟子達、円仁・安慧・円珍らの著作にほとんど本覚の用語が見えない理由を推測すると、叡山では『釈摩訶衍論』を龍樹作とは信用していなかったことが『守護国界章』巻上の弾麁食者謬破四教位章第六(『伝全』二ノ二七八頁)、円珍の『上智慧輪三蔵書』(智全一三三八下頁)に見える。
つまり叡山では『衍論』を誠証としてはならぬという立場をとるために、ひいては本覚を術語化することを意識的に避けたものと思われる。
また最澄以下日本天台では『起信論』を愛用し、円珍は『大乗止観』を「南岳云」として使用したにも拘らず、本覚の用語例がほとんど皆無なのは、一には本覚とは真如の随縁面に外ならぬとすれば、好んで使用するにも当たらない。
二には東密の法門とまぎれることを恐れたためであると思われる。
ただし本覚思想としては、最澄の『守護章』巻下の「無作三身」は報身常住論であって凡夫実仏論ではないとはいえ、やがて中古天台の無作三身観の語源をなすものとして注目に価する。
最澄は入唐して道邃からは本覚法門を、行満からは始覚法門を相承したとする説は『漢光類聚』あたりから唱え出された胸臆の説であって、現存する確実な資料からはその証拠は発見できない。
また円仁・円珍には密教曼茶羅思想があって、大日如来と現象界との相即相入を説き、三密具足の法身の遍一切処、五智五仏の性具、心性蓮華(人の心臓は蓮華の如く、そこに胎蔵曼茶羅諸尊が住するとする説)を説いて、凡夫の即仏性を高め、五大院安然(八四一-九〇三-)に至っては『教時義』に明らかなように東密の六大体大・四曼・九識十識説等を摂入れて密教の絶対観を一層強烈にし、遂に本来一仏義を立てて十界を大日如来と一体不二と見るに至る。
天台宗は無作十界を説き、十界差別の上に立って、これを開会したときに本来一仏平等となるとするところに、教相上では真言宗に劣るが、所詮の理においては真言宗と理一であるというが、この無作観に真言宗の本来一仏の内容を附与すれば、中古天台の無作三身観が成立したも同然である。
また本覚の用語例としてこれを将来の展開から見て注目すべきは、まず円珍の『講演法華儀』に突如として「本覚讃」が登場する。
本書は日蓮聖人の『註法華経』では「講演法華儀云、世ニ山王院ト云フ」(開ノ二二ー二三ウ)とて円珍作であることを幾分か疑うふしが見えるが、『些々疑文』等を見るとき、円珍は法華曼茶羅に対する関心が叡山先師の誰よりも強く、本書を円珍に仮託した理由がうかがえる。
そして同時代の後輩の安然になると「『蓮華三昧経』に云く」と銘打って「本覚讃」を金剛界曼荼羅思想の最も簡潔な表現として盛んに引用する。
「本覚讃」とは「本覚心法身に帰命す 常に妙法心蓮台に住す 本来、三身の徳を具足し 三十七尊、心城に住す 普門塵数の諸三昧 因果を遠離し、法然として具す 無辺の徳海、本円満す 還て我、心の諸仏を頂礼す」という七字一句の八句からなる讃頌で、聖人も『八宗違目鈔』(真蹟二四紙完存)の中に「蓮華三昧経に云く」として引用しておられる(定五二八頁、但し「心王大日遍照尊 心数恆沙諸如来」の句が加入されて十句からなる)。
安然以降、叡山の教学は暫く衰微し、そのうえ数度の火災で全山荒廃したが、慈慧大師良源(九一二-九八五)が出て伽藍の再興、法華中心の教学の復興に努め、門下に優秀な人材を輩出したが、中でも恵心僧都源信(九四二-一〇一七)と檀那院覚運(九五三-一〇〇七)は双璧で、良源から源信は観心・本覚法門を、覚運は教相・始覚法門を相承したといわれるが、かかる説のはしりは文献的には伝忠尋作の『漢光類聚』である。
本書は日蓮聖人滅後の成立であるが、恵檀両流の違いについては聖人も『四条金吾殿御返事』(定六三四頁)に恵心は観、檀那は教を伝えたと述べるところである。
実はしかし源信の確実な著作である『一乗要決』『往生要集』等は非常に文献的・学問的な論述であって、教相を無視した観心ばりなところは全く見えない。
もちろん本覚の用語例も少ない。
中古天台本覚思想の一般的特徴は教相を無視した観心主義にあり、自己の胸臆の私説の正当性を主張するためには、架空の書物を捏造したり、中国・日本の先師の口伝を勝手に称して自説の援証とすることを辞さない。
しかし最初は観心主義も良心的であったろう。
恐らく密教の秘儀の面授口決主義との対抗上、法華の秘奥を弟子に口授する形式の必要を感じ、師が章疏の行間に感得した幾つかの内証の解釈を、あるいは小さな切紙に書き記して伝授し、あるいは密室に弟子一人を呼び込んでひそやかに面授口決していたのであろうが、やがてそれが形式化して切紙相承・秘授口伝の儀式を生むに至ったと想像される。
一たび儀式化されれば、あとは相承される内容も形骸化して、伝統的釈義を故らに歪曲した勝手気儘な解釈が深秘の口伝として横行するに至ることは目に見えている。
例えば『修禅寺決』の止観大旨・法華深義が如何に『摩訶止観』『法華玄義』の法相を歪曲していることか。
因みに密教においては善無畏説の『大日経疏』において既に肝心なところになると「更問」とて、詳解を師からの口授に譲っている。
口決・切紙は恐らく蓮実房勝範(九九六-一〇七七)あたりから始まったであろうとされる。
勝範の師の皇慶(九七七-一〇四九)は台密事相の大成者でもあった。
蓮実房口伝のことは聖人の『註法華経』(一ノ一七ウ、六ノ二○ウ)にも見える。
〔遺文と本覚思想〕切紙・口伝の類が文献化された作品として聖人の目にふれたものは伝最澄作の『本理大綱集』と伝円珍作の『授決円多羅義集唐決』である。
前書については『本理大綱集等要文』と名づけられた要文集の真蹟が池上本門寺にあり、後書については一七歳のときの上巻写本が金沢文庫にある。
また遺文中、後書からの引用はないが、前書からの引用とおぼしい文が『本尊抄』にある。
即ち第一八番間答の中の「華厳経云究竟」から「起信論云(略)清浄功徳」までの文(定七〇八頁)および「但可会断諸法中悪経文也。
彼法華経載爾前経文也」(定七〇九頁)の「本理大綱集に云く」とは銘打ってないが、明らかに本書の第三「十界互具文」からの取材である。
なお右の両書には本覚の語は見えない。
また伝最澄作の『牛頭法門要纂』の第五の三惑頓断の章の「生死二法一心妙用 有無二道本覚真徳」の文(『五部血脈』『本無生死偈』にも同文あり)が『生死一大事血脈鈔』(定五二二頁)に見えるが「伝教大師云」として引用されているから、『牛頭法門要纂』からの引用とは限らず、もし切紙の段階からの引用とすれば『牛頭法門要纂』等の書物が聖人以前に成立していた証拠にはならない。
なお『生死一大事血脈鈔』自身、聖人の親作とは思えない節がある、真偽未決の書である。
更に伝最澄作の『修禅寺決』が『十八円満鈔』(続四〇)、『臨終一心三観』(続五二)に長文引用されるが、この遺文は続篇編入の偽書であり、かつ宗門では該して『修禅寺決』を聖人滅後の成立と考えている。
遺文中、本覚の用語例は『十法界事』(定一四二頁)、『持妙法華問答鈔』(定二八五頁)、『聖愚問答鈔』(定三九〇頁)、『灌頂鈔』(定八〇一頁)、『總勘文鈔』(定一六八七頁以下)および続篇編入の偽書、『御義口伝』等、割合に多く見られるのは聖人以前の仏教界において既に本覚思想は法門として発足していたことを思えば当然である。
比叡山では中古天台教学は文献化以前に口伝・切紙として流行しており、山を風靡していたことは、道元の入宋の動機を見ても明らかである。
それより早く空海・安然において本覚の用語例は多く、以後三〇〇年を経て宝地房証真の『玄義私記』巻七に本覚如来に対する批判があって、本覚思想が相当に流行していたことを立証している。
聖人の叡山遊学は証真より五〇年後である。
しかし聖人の思想信仰は断じて本覚立ちではない。
その身土一念三千観は、例えば『開目抄』の本因本果の法門の如き、『本尊抄』の四十五字段の如き、確かに本覚的表現であるとしても、それは証悟の世界、感応の世界の理論的表現なのであって、実践論上ではこれを現実に具現するために最大限に精進すべき必要を力説している。
「立正安国」がそれである。
ところが中古天台本覚思想では悟境に顕れるべき理の世界をそのまま現実に適用して、現実の改善、修行の必要を全く認めず、あるがままでよいと勧める。
また聖人教学の今一つの基盤は末法思想である。
過去下種の者はほとんど正像二千年に脱益を遂げ、末法は本未有善の衆生であり、これに対する下種をもって己が任とされたことを顧みるとき、凡夫を本覚無作の三身と認め、仏は虚仏であって凡夫こそ実仏であるとするが如き思想と両立すべくもない。
もしありとしても(例えば『諸法実相鈔』・定七二四頁)所詮は聖人の傍系思想である。
《島地大等「日本仏教本覚思想の概説」『仏教大綱』、清水龍山「日蓮聖人の学説の由来」『法華経要義』、浅井要麟『日蓮聖人教学の研究』、硲慈弘『日本仏教の開展とその基調』、望月歓厚「本覚法門の成立と法華経の二門」『日蓮教学の研究』、田村芳朗「天台本覚思想概説」『天台本覚論』、浅井円道『上古日本天台本門思想史』、小松邦彰・花野充道『日蓮の思想とその展開』(春秋社『シリーズ日蓮』二)、『遺文辞典』教学篇「本覚」の項、『日蓮辞典』『広説仏教語大辞典』「本覺」の項、『新版仏教学辞典』「本覚・始覚」の項、『岩波仏教辞典』「本覚」「本覚思想」「初発心時便成正覚」の項、『天台学辞典』「初発心時便成正覚」の項》
(浅井円道)