十界互具
十界互具
じっかいごぐ
十界の一々に互いに他の九界を具有するということ。
天台大師智顗(五三八-五九七)が創説したところで、『法華玄義』では巻二上で衆生法を広説する中に「又一法界に九法界を具すれば即ち百法界」とあり、『法華文句』では巻二で経の「萬二千人倶」を観心釈する中に「一界に又十界」とあり、『摩訶止観』では巻五で観陰入界境の第一に観不思議境を解説する中に「一法界に又十法界を具すれば百法界」とある。
十界のそれぞれが他の九界を互具する理由については『法華玄義』の同所に「若し十数法界に依れば能依(十)は所依(法界)に従ふ、即ち入空の界也(十事は法界理に依る故に、十事は情相を亡じて空)、十の界界隔つるは即ち仮の界也、十数皆法界なるは即ち中界なり」とあるによれば、十界は円融三諦のありように於てあるから、十の差別の当相当処において円融平等であることを、互具と表現したわけである。
『摩訶止観』の同所にもほぼ同様の説明がある。
また法華経の諸法実相説の基底として智顗が看取した相対開会の論理や、『大品般若』の「一切法、一法に趣く」、「金光明経」の「一切法に於て一切法を含受す」、『維摩経』の「須弥芥子相入」等の諸経論説も互具説の樹立に影響したと考えられる。
十界互具は天台大師の創設であるから、また法華経のみが有する真理であることは当然であって、日蓮聖人は早くよりこの主張を所持しておられた。
第一作の『戒体即身成仏義』には「十界互具する故に妙法也」(定一〇頁)、『十法界事』には、「十界互具とは法華の淵底、此宗の沖微也」(定一三七頁)等とある通りである。
法華以前の諸経は不思議境の十界互具を説かず、蔵教・通教を説く阿含・方等の諸経は心生六界を述べ、別経を主説する華厳経等は心生十界を説いてそれぞれの思議境を明かす(『摩訶止観』巻五の思議境を明かすところに解説あり)とは、『八宗違目鈔』(定五三〇頁)、『十法界事』(定一三七-八頁)、『一代聖教大意』(定六二・六九頁)に説くところである。
心生とは地論宗・摂論宗等でいうところの唯心論を指し、心具とは天台宗の実相論である。
十界互具はまた天台宗の一念三千論の基底をなす教理であり、十界互具して百界、これに十如是を相乗して千如、これに三種世間(五陰・衆生・国土)を相乗して三千世間となる。
ただし『法華玄義』『法華文句』『観音玄義』等は千如是までは説くが、一念三千までは説かず、『摩訶止観』巻五に来て始めて一念三千が説かれるとは、『観心本尊抄』の冒頭でも言及するところである。
また一念三千の法数に十界互具を加えた理由について妙楽大師湛然(七一一-七八三)は『摩訶止観輔行伝弘決』五に「十界に約せずんば事を収むること徧ねからず、三諦に約せずんば理を摂すること周ねからず、十如を語らずんば因果備はらず、三世間なくんば依正尽さず」という。
「事を収む」とは、その直前に「経に諸法実相所謂諸法如是相等と云へり、既に諸法と云ふ、故に実相は即ち十(界)なり」というによれば、経の「諸法」とは万法万物であり、即ち事である。
そのありようを十の段階に区分けしたのが十界である。
故に「諸法の如是性」等とは十界の如是性等という意味となり、十界と十如とが相乗されることになるのである。
これらの十界互具論に関する註解の文は日蓮聖人が常に引用し説明されたところであるが、それにも増して最も常用されたのは、二乗作仏の教相による十界互具の説明であって、佐渡流罪前の、而も最も初期の遺文に既にその説明が見える。
『戒体即身成仏義』に「十界に亘って二乗・菩薩・凡夫を具足せり。
故に二乗を成仏せずと云はば、凡夫・菩薩も成仏せずと云ふ事也。
法華の意は一界の成仏は十界の成仏也」(定一〇-一頁)、『一代聖教大意』に「法華経とは別の事無し、十界之因果は爾前の経に明す、今は十界の因果互具をおきてたる計也。
爾前の経意は菩薩をば仏に成るべし、声聞は仏に成るまじなんど説けば、菩薩は悦び、声聞はなげき、人天等はおもひもかけず(略)人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らずして四十二年は過ぎし也。
爾るに今経にして十界互具を談ずる時、声聞の自調自度の身に菩薩界を具すれば(略)をもはざる外に声聞が菩薩と云はる」(定七〇頁)、『守護国家論』に「華厳経の如きは二乗界を隔つるが故に、十界互具無し。
方等・般若の諸経も亦十界互具を許さず」(定一一〇頁)等といわれるのはその一例で、ここに初期日蓮教学においては、法華経は十界互具に拠る故に二乗作仏を許し、二乗作仏を説く故に十界互具を真理として認めることができるという論理を有していたことがわかる。
またこれらの文脈からも知れるように、日蓮聖人は一念三千を十界互具によって説明されることがよくあるが、この傾向はやがて『開目抄』になると、「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(定五三九頁)と言明し、迹本両門の一念三千理の浅深を立てるときも、「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説て爾前二種の失一ツを脱れたり。
しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず(略)本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。
四教の果をやぶれば、四教の困やぶれぬ。
爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門十界の困果をとき顕す。
此れ即本困本果の法門なり。
九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(定五五二頁)と、十界互具に約して有始と無始との差であると説明される。
更に『観心本尊抄』は、『摩訶止観』巻五の一念三千の典拠をなす文から始められて、重々に一念三千に関する問答を重ねて行くが、第一三番問答になると「問て云く、法華経は何れの文ぞ」と一念三千に関する法華経の経文証拠を問うたのに対する答えは「法華経第一方便品に云く、欲令衆生開仏知見等云々、是は九界所具の仏界也。
寿量品に云く、如是我成仏已来甚大久遠寿命無量阿僧祇劫常住不滅、諸善男子我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数等云々、此経文は仏界所具の九界也」(定七〇四頁)と総じて引文し、次に別して引文するにも地獄界所具の仏界の文、餓鬼界所具の十界の文、畜生界所具の十界の文、修羅界所具の十界の文、人界所具の十界の文、天界所具の十界の文、声聞界所具の十界の文、縁覚界所具の十界の文、菩薩所具の十界の文、仏界所具の十界の文を引き、十界互具の文に約して一念三千の証文とされる。
その後も十界互具、殊に人界所具の仏界に関する問答が重ねられ、遂に第二○番問答では、十界互具は「釈尊の因行果徳」として凝結されることになる。
次に十界互具の現実の証拠としては『観心本尊抄』の第一五番問答によると、「瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平かなるは人也」、また「所以に世間の無常、眼前に有り、豈に人界に二乗界無からんや。
無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分也」、また「堯舜等の聖人の如きは萬民に於て偏頗なし、人界の仏界の一分也。
不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。
悉達太子は人界より仏身を成ず。
此等の現証を以て之を信ずべき也」と教えられる。
《『遺文辞典』教学篇「十界互具」の項、『日蓮辞典』「十界互具」「十界皆成」の項、『天台学辞典』「十界」の項、『新版仏教学辞典』「十界互具」の項》
(浅井円道)