地獄
地獄
じごく
地下の獄(ひとや)という意味である。
サンスクリットのニラヤnirayaを音写して泥囉夜、ナラカnarakaを音写して奈落というのも同じ意味である。
仏教諸経典に説かれるように、自分の行った悪業(あくごう)によって、衆生はそれぞれに応じた地下の牢獄に行かねばならぬとされる。
その様相については八大地獄(八熱地獄)・八寒地獄のほか、孤独地獄・十八地獄などの説がある。
これらについて述べる経典を挙げると、『長阿含経』一九巻(『正蔵』一巻)、『起世因本経』・地獄品(同一巻)、『雑阿含経』三六巻(同一巻)、『中阿含経』四八巻(同一巻)、『長阿含経』二巻(同一巻)、『集異門論』二巻(同二六巻)、『倶舎論』八巻(同二九巻)、『正法念処経』・地獄品(『国一』経集部第九)、『華厳経』四巻(『正蔵』経九巻)、『観無量寿経』(同一二巻)、『灌頂経』一二巻(同二一巻)、『出曜経』・無常品(同四巻)、『法句経』・悪行品(同四巻)等々にふれられており、地獄の体系の伝統的解釈は『倶舎論』に見られるという。
(一)八熱地獄とは(1)無間地獄、(2)極熱地獄、(3)炎熱地獄、(4)大叫地獄、(5)号叫地獄、(6)衆合(しゆごう)地獄、(7)黒縄(こくじよう)地獄、(8)等活地獄をいう(それぞれの状景については後にふれる)。
(二)八寒地獄とは
(1)摩訶鉢特鉢(まかはどは)地獄―寒さのため身が変じて折れ裂けること、あたかも大紅蓮華のようである。
(2)鉢特摩(はどま)地獄―厳寒のため紅蓮華のようになる。
(3)嗢鉢羅(うばら)地獄―厳寒のため青蓮華のようになる。
(4)虎虎婆(ここば)地獄―苦しくてフフヴァという声を発する。
(5)臛臛婆(かくかくば)地獄―苦しくてハハヴァという声を発する。
(6)頞哳咤(あせた)地獄―同じくアタタという声を発する。
(7)尼刺部陀(にらぶた)地獄―寒さのため身の水皰が裂ける。
(8)頞部陀(あぶた)地獄―寒くて身体に水頞を生じる。
いずれも寒さのために身と声に異常がおきた段階によって八寒地獄と名づけている。
なお日蓮聖人は『涅槃経』によって阿波波・阿咤咤・阿羅羅・阿婆婆・優鉢羅・波頭摩・拘物頭・芬陀利を八寒地獄と述べている(定一四〇〇頁)。
(三)八大地獄に付随している一六の地獄。
即ち八大地獄の四つの側面の門の外に各々四つの付随的地獄ありという。
(1)煻訕増(とうえぞう煻訕(あつばい)が膝まであり、皮と肉と血とがやけただれる。
(2)屍糞増(しふんぞう)―屍糞の泥があふれており、その中にくちばしの鋭いニャンクターという虫がいて、皮を切られ、骨を破られ、その髄をたべられる。
(3)鋒刃増(ぶじんぞう)―このなかに三種がある。
刀刃路(とうじんろ)―刀刃が仰むけに置いてある。
剣葉林(けんようりん)―その葉が鋭利な剣刃でできている林。
鉄刺林(てつしりん)―鋭利な鉄の刺が生きとし生けるものを刺す。
(4)烈河増―鹹水(アルカリ性の水)で骨肉がただれにただれる。
以上のような四つの増とよばれる地獄の四つの側面に更に四つの増があって、計一六となるというのである。
〔日蓮聖人の地獄への関心〕日蓮聖人遺文には地獄という用語がひんぱんに用いられている。
それによって、いかに日蓮聖人の宗教性の基盤に地獄への恐れが強く深く流れているかが推察できる。
『報恩抄』には、かつての師である道善房の訃報を聞いて、自らの仏教実践の誤りがなかったこと、生涯にわたる法華経実現の功績はすべて道善房に帰せられるものであることを語っているが、御自身の功績を集約するにあたって次のように述べている。
「日蓮が仏教を広く宣べ伝えてきた功績とはなにか。
それは日本国の大衆が皆一様に盲目になってしまって地獄への道を歩んでいるけれども、日蓮は仏陀の真実の救済を開き顕して、すべての人々が無間地獄への道を歩まぬよう、しっかりと教えのありようを示したことである。
この功績は未だ仏教史上誰人もなし得なかったことであり、今、日蓮はそれをなしとげたのである」(定一二四八-九頁取意)と。
このように、日蓮聖人は御自身の功績を、末代の衆生が無間地獄に堕ちることのないよう、教主釈尊の教えの真髄を明らかにしたことにあると断言しているのである。
いかに聖人の宗教にとって地獄が重大な課題であったかを知ることができるよう。
このような関心はいつ頃から聖人に自覚されていたのであろうか。
後年、身延からの書簡である『妙法尼御前御返事』には、聖人が幼少の頃から人生の無常に思いを致したこと、まず臨終(りんじゆう)(死)のことを学んでその後に世間のことを習えということを基本として仏教を追求したこと、その結果、周囲の仏教信者の臨終のありさまに疑問を起したことが述べられている。
「夫れ以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命は無常也。
出づる気(いき)は入る気を待つ事なし。
風の前の露、尚譬にあらず。
かしこきも、はかなきも、老ひたるも、若きも定め無き習ひ也。
されば先(まづ)臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと思ひて、一代聖教の論師、人師の書釈あらあらかんがへあつめて、此を明鏡として、一切の諸人の死する時と竝に臨終の後とに引き向へてみ候へば、すこしもくもりなし。
此人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候を、世間の人々或は師匠父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候」(定一五三五頁)。
このように日蓮聖人の無常観は地獄観と深く関わっているのであり、どのようにすれば堕地獄の苦から遁れることができるかということが聖人の宗教的原体験として強く位置づけられていたことが分る。
師匠が地獄に陥ったのに、弟子は師匠の臨終を讃えるために師匠の苦しみは増すばかりであるという状態が起きている。
「悲しい哉、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。
譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物の口をあけずしてやま(病)するがごとし」(定一五三五-六頁)と。
念仏者が無間地獄へ堕ちることを警告することは、このような原体験から出発している。
文永元年(一二六四)には『当世念仏者無間地獄事』が安房国東条花房の郷、蓮華寺において浄円房に対して日蓮阿闍梨の名によって註されている(定三一一頁)。
法然房源空の『選択本願念仏集』が末代の衆生を無間地獄に堕墜せしめる根本原因となったとの批判は同書に述べられているが、この批判は『守護国家論』『立正安国論』の主張を継承したものである。
従って四筒格言の第一たる念仏無間の批判は、このような仏教受容と現状の認識を基盤とした宗教的軌範であることに思いを致さなければならない。
そして、それを批判し、教主釈尊の真髄を明らかにするため、日蓮聖人は法華経の行者として法華経の予言(未来記)を色読し、上行応現の御自覚に到達して三大秘法を明らかにした。
前述の『報恩抄』に述べた自負の言葉は、まさに堕地獄の道を塞ぐための日蓮聖人の宗教の一貫性を語るものである。
〔地獄の様相とその認識の継承〕日蓮聖人はこのように地獄についてしばしば言及しているが、それにもかかわらず、ほとんど地獄の様相についてはふれていない。
ただ『顕謗法鈔』には八大地獄に堕ちる業因とその状景を詳しく描写している(定二四七頁以下)。
ところで、これを日本仏教史上、最もよく地獄の様相を諸経論によって類聚した恵心僧都源信の『往生要集』と対照すると、おそらく同書によって地獄の様相を確かめたことが推察される。
周知の通り、日蓮聖人は『往生要集』を手厳しく批判している。
なぜなら同書の序文を見れば浄土易行の論に基き、聖道門難行道批判の書であること一目瞭然だからである(『守護国家論』定一〇九頁、『浄蓮房御書』定一〇七五頁、『四信五品鈔』定一二九六頁等)
しかし、同書論述の趣旨をひとまず措けば、(1)『往生要集』の地獄の描写はすべて諸経論を類聚したものであるから、日蓮聖人の聖教量重視と矛盾せず、(2)一般的な地獄の知識を確認するのであるから、教義信条の基本に抵触することはないのであって、同書を参照することは何ら問題ではなかった。
(3)更に考えれば『顕謗法鈔』が元浄土教信仰者に宛てられたものと考えられなくもない。
即ち『顕謗法鈔』は、(1)八大地獄の因果を明かす、(2)無間地獄の因果の軽重を明かす、(3)問答料簡を明かす、(4)行者の用心を明かす、の四段から成っているが、(1)の部分が『往生要集』の部分と照応する。
ただし、第一等活地獄の業因について、『往生要集』は「殺生せる者、この中に堕つ」と、殺生を業因とすることを述べるのみである。
それに対して日蓮聖人の『顕謗法鈔』は、ものの命を断つということは誰しもが犯している罪であり、高貴なる人もそうでない者も、日本国の人々は等しくこれを犯しているのであって、どれほど持戒・持律を誇る僧といえども少しもこの罪に無関係ではあり得ないこと、そうして更にいえば殺生をなりわいとしている人々の生活を考慮せねばならぬことを述べている点に、単なる伝承ではなく、現実的なうけとり方への配慮がなされていることに気づく。
等活地獄はこの閻浮提(えんぶだい)(世界)の地下一千由旬にあり、縦横ともに一万由旬。
この中の罪人は殺し合いをしており、骨ばかりが残ると、獄卒が鉄杖で頭から足まで打ちくだき、沙(すな)のようになってしまい、あるいはきれる刀で肉を細かく割くのである。
それでも死によって苦痛を遁れることはできず、よみがえっては同様な苦を受けるのである。
第二黒縄(こくじよう)地獄は等活地獄の下にあって、縦横は等活地獄と同じ。
偸盗(ちゆうとう)(盗み)をはたらいた者が熱鉄の地に伏せさせられて、熱鉄の縄で身体にしるしをつけられ、熱鉄の斧でしるし通り割かされる。
第三衆合(しゆごう)地獄は、黒縄地獄の下にあって広さは同じ。
鉄の山が二つずつ向い合っており、邪淫を犯した者が獄卒に叩かれて山の谷間に逃げると、両方の山が迫って来て押しつぶされ、身体が摧けて血が流れる。
第四叫喚(きようかん)地獄は衆合地獄の下にあって広さは同じ。
飲酒(おんじゆ)の業因によって、獄卒に弓箭で射られ、鉄棒で頭を打たれ、熱鉄の地を走らされ、熱鉄の棚であぶられ、更に融かされた銅を飲まされるなどの苦を受ける。
第五大叫喚地獄は広さは前に同じ。
妄語の業因によって前の諸の苦の一〇倍の苦しみを受ける。
第六焦熱(しようねつ)地獄は、大叫喚地獄の下にあって広さは同じ。
因果がないという邪見によって、前より一層つらい苦を受ける。
たとえばこの地獄の豆ほどの火を閻浮提(世界)に置くと、あっという間に閻浮提が焼け尽きてしまうほどの熱さである。
第七大焦熱地獄は焦熱地獄の下で広さは同じ。
浄戒の比丘尼を犯した者は前の六つの地獄のすべての苦を一〇倍した苦を受ける。
このように七つの地獄の苦しみを述べた後、この苦は誰あろう、日本国の人々が受ける苦しみではないかという。
『往生要集』はひたすら浄土を求める心を起させるために、今の世が厭(いと)い離れねばならぬ苦しみ多き穢土(えど)であること(厭離穢土欣求浄土)を思い知らせる第一に地獄の苦を説いているのである。
が、それに対して、日蓮聖人は地獄の業因が極めて現実的に迫って来るものなのであるから、堕地獄の恐怖に思いを致さなければならないことを指摘する。
そして、遂に第八大阿鼻(だいあび)地獄について述べられる。
欲界の最底・大焦熱地獄の下にある大阿鼻地獄は無間地獄ともいわれる。
サンスクリットのAvi ̄ciを音写すれば阿鼻となり、意訳すれば無救、即ち苦しみを受けることが絶え間がないから、無間(むげん)となる。
広さは縦横八万由旬と前の地獄に比べて縦横とも八〇倍の広さになり、外に七重の鉄の城があるところから無間大城ともよばれる。
その苦しみは前の七大地獄の一〇〇〇倍である。
この地獄の罪人が大焦熱地獄の罪人を見ると、他化自在天が自由自在に楽しみを得ているように見えるほどである。
それ以上詳しく述べると人々が聞くことに耐えられないので、仏は説かれなかった。
さて、この地獄に堕ちる業因は、五逆罪と謗法罪である。
即ち、一一の徳目を犯した罪よりも更に一層重い罪は仏教を根底から破壊する罪である。
『往生要集』においては五逆罪のみを掲げているが、日蓮聖人はそれに加えて謗法罪を挙げている。
なぜなら仏在世には五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血)が存在し得たが、滅後末法にあっては後の三は存在せず、殺父・殺母が仏法以前に世法において尊属殺人として厳しく誡められているからである。
滅後末法における根本的な罪は誹謗正法(ひほうしようぼう)、つまり正法(仏教)を否定することである。
このことは『顕謗法鈔』第二段に詳述される通り、法華経譬喩品に「若し人、信ぜずして此経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれており、それ以前に『大品経』において三宝(仏法僧)を破る破法の業こそが、仏教を根幹から破壊する最大の悪であることが明らかにされているのである。
〔自己のうちなる地獄〕なお、日蓮聖人晩年六〇歳に書かれた『重須殿(おもんすどの)女房御返事』には「抑も地獄と仏とはいづれの処に候ぞとたづね候へば(略)我等が五尺の身の内に候とみへて候」(定一八五六頁)と述べられている。
このことは『観心本尊抄』等から見ても当然の所説であるが、要するに、日蓮聖人は仏滅後末法の衆生はおしなべて地獄の苦を受けているとし、その業因は謗法にあることを明らかにし、それに眼覚めさせることによって、衆生をして等しく教主釈尊の救済を得させることを誓願としたのである。
《渡辺宝陽「謗法・堕獄覚え書き」『日蓮教学研究所紀要』四号、『遺文辞典』教学篇「地獄」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と地獄・浄土」の項、『日蓮辞典』「地獄」「阿鼻地獄」「無間地獄」の項、『天台学辞典』「地獄」「八寒地獄(はちかんじごく)」「八熱地獄」の項、『岩波仏教辞典』「地獄」「阿鼻」「八熱地獄」「八寒八熱」の項、『岩波仏教辞典』「無間地獄」の項、『図説仏教語大辞典』「八熱地獄」の項》
(渡辺宝陽)