明鏡
明鏡
めいきょう
「みょうきょう」とも。
日蓮聖人の場合、明鏡とは法華経を指す。
われわれが鏡にその姿を映すのに曇った、汚れた鏡では明確には像を映し出し得ない。
それは明鏡によらねばならないのと同様に、われわれの信仰、その行動、判断基準等は権経ではなく実経である法華経によらねばならないことを鏡にたとえたのである。
日蓮聖人の遺文の中には、この明鏡の譬喩は随所に出てくるが、それには二義がある。
(1)は「法華経を明鏡として一切経の心を知る」(定一一九四頁)。
釈尊一代五十年の説法で法華経こそが真実であり、明鏡である法華経で一切経を照し、そこにある仏の心を知るのである。
(2)は法華経の明鏡をもって我身を勘う、という向鏡(定七〇四頁)である。
自己の信仰・行動は法華経によって規定される。
鏡に写映された「自己」は法華経につつまれた「自己」であり、その「自己」が逆に次には法華経を現代に規定する。
それは自己につつまれた法華経である。
このように所照が同時に能照となって自己に還帰するという観心的譬喩である。
なお、この外に
(3)法華経という教主釈尊の真精神を正しく継承し、発揮した天台大師の著作を「明鏡」という(定七〇四頁)。
(4)『金光明経』『仁王経』『大集経』等の、仏滅後末法における破法・破国の状況を予記した経々を「明鏡」という(定八一七頁)。
《『遺文辞典』教学篇「明鏡(めいきょう)」の項》