大集経
大集経
だいじっきょう
「だいしゅうきょう」とも訓み、詳しくは「大方等大集経」といい、六〇巻よりなっている。
『正蔵』一三巻所収。
本経は隋の時代の僧就によって六〇巻本に編纂されたもので、それまでの大集経は多く三〇巻内外の本を指し、他は「大集部」に属してそれぞれ別名をもっていた。
高麗本の大蔵経はこの僧就が諸師の訳本を集めて一部六〇巻としたものである。
その訳本を挙げれば、(一)『大方等大集経』二九巻。
北涼の曇無讖訳。
六〇巻本中、第一巻より第二六巻に至るまでの二六巻と、第三一巻より三三巻までの日密分までを指す。
一般に『大方等大集経』とはこの曇無讖訳を指していた。
(二)六〇巻中、第二七巻より第三〇巻の四巻は宋の智巌と宝雲の共訳で「無尽意菩薩品」と名づけられているが、もと『無尽意菩薩経』六巻として別行されていた。
(三)六〇巻中、第三四巻より第四五巻までの一三巻日蔵分は、隋の那連提耶舎の訳で、もと『大乗大方等日蔵経』として別行されていた。
(四)六〇巻中、第四六巻より第五六巻の一一巻月蔵分は、高斉の那連提耶舎の訳で、もと『大方等大集月蔵経』として別行されていた。
(五)六〇巻中、第五七巻と第五八巻の須弥蔵分二巻は、高斉の那連提耶舎の訳で、もと『大乗大集経』として別行。
(六)六〇巻中、第五九巻、第六〇巻の二巻は、後漢の安世高の訳で、もと『仏説明度五十校計経』として別行されていたものである。
以上の如く『大集経』は諸師諸訳のものが一部に編纂されたものであることがわかる。
経名の「大集」とは、釈尊が十万の仏・菩薩などを多数集めて大乗の法を説かれたことに由来し、また「大宝聚」という宝の集まりという義もある。
その内容は法数・法相を挙げることが多い。
なおこの経は日蓮聖人の『一代五時図』によれば、方等部の経として権大乗に位置づけられている。
『開目抄』に「大集経に云く、如来成道始め十六年等云云」(定五五一頁)、「大集経に云く始十六年」(定五七六頁)とあるのは、『大集経』第一巻の「瓔珞品」(『正蔵』一三巻一頁b)の文である。
また同抄に「大集経には十方の諸仏菩薩大宝坊にあつまれり」(定五四八頁)、「大集経の来集の仏」(定五七二頁)とあるのは、同じく「瓔珞品」「陀羅尼自在王菩薩品」等の説相である。
なお日蓮聖人は『立正安国論』に災難興起の原因を釈尊の一代聖教に求められたが、その中でも『金光明経』『大集経』『仁王経』『薬師経』の四経を引用されている。
『大集経』は日蔵分法滅尽品(『正蔵』一三巻三七九頁b)を引いて災難続出の経証とされ、また虚空目分護法品(『正蔵』一三巻一七三頁a)の文を引いては、殻貴(飢饉)・兵革(兵乱)・疫病の三災が起る文証とされている。
更に聖人は末法の時代規定を「闘諍言訟白法隠没」とされたが、その根拠となったものが『大集経』の五箇の五百歳説である。
この五箇の五百年は、月蔵分分布閻浮提品(『正蔵』一三巻三六三頁)に詳述される処であって、聖人は『曽谷入道殿許御書』(定九〇八頁)、『撰時抄』(定一〇〇五頁)等に引用せられる。
その引意は、釈尊が末法という未来を予見されたもの、即ち「時」を定められたと受けとめられたのである。つまり、これらの経文は大覚世尊の仏眼・仏日として引用されているのである。
そしてこの仏眼をもって、正しく時代を認識せられた聖人は、正しく末法の予言された時代に仏使として出現せられたことを強く自覚されていったのである。
《『遺文辞典』歴史篇「大集経」の項、『大蔵経全解説大事典』「〇三九七・大方等大集経」の項、『大乗経典解説事典』「大集部」、『仏書解説大辞典』「大方等大集経」「大方等大集月蔵経」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「大集経」の項》