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末法

まっぽう #3329

末法

まっぽう

釈尊入滅後、時代が下るにつれてその教えの影響力が次第に衰え、時代社会の混乱と退廃が起り、ついに完全な破滅が到来する、と考えるの終末的歴史観である。
そして仏法が衰滅する時期を三期に区分し、正法・像法末法とする。
慈恩大師窺基の『大乗法苑義林章』によれば、教と行と証とがともに完全に具わっている時代を正法、教と行のみがあり証を欠く時代を像法、教のみあって行と証とのない時代を末法とすると説く。
このような三時の考えの先駆は、インドにおいて『阿含経』の中に正法と像法についての説明が見られ、律の中に女人の出家により正法千年が五百年に短縮したと説かれている。
法華経の安楽行品には「如来の滅後、末法の中においてこの経を説かんと欲せば(略)」とあり、分別功徳品には「悪世末法、能く是の経を持たん者は(略)」とある。
また末法は法滅の時であるが、仏法隠没・破滅を強調するのが『大集経』である。
同経月蔵分には仏法隠没の具体的な様相が説かれており、それが末法の時代相を示すものとされ、更に同経の五堅固説=五箇の五百歳の第五白法隠没闘諍堅固の時が末法に相応するとされるのである。
同経は五六六年、那連提舎によって漢訳され、末法思想の流行とともに、中国・日本の界に大きな影響を与えたのである。
正・像・末三時の期間については異説があり、(1)正・像各五百年説、(2)正法千年・像法五百年説、(3)正法五百年・像法千年説、(4)正・像各千年説、の四種があるが、いずれも末法は一万年とし、その後に法滅尽の代が来るとする。
この四説のいずれを取るか、また仏滅年代を何年とするかによって、末法到来の年に相異が生ずるのである。

 末法に対する意識が起ったのは中国においてで、南岳大師慧思の『立誓願文』には、正法五百年像法千年の規定と並べて、自らが末法第八二年に生れたことを記している。
更に末法意識の浸透と共に、信行の三階教や道綽・善導浄土が興隆した。
この背景には僧侶の堕落や武宗の仏教弾圧等の事実があり、人々に末法の意識をもたせたのである。
これらは正法五百年・像法千年の期間であったから、仏滅後千五百年が末法第一年となり、中ではこの年を紀元五五二年としていた。

 日本においては教伝来と共に末法思想も移入されたが、特に平安仏教に受けとめられ、鎌倉にその精華を見る。
平安二宗の最澄・空海ともに末法到来の近いことを警告している。
最澄は「正像稍過ぎ已って、末法太だ近きに有り」(守護国界章)、「代を語れば像の終、末の初め」(法華秀句)、「像末の四衆」(顕戒論)等と、その著作の随処に自己の時代が像法の末期であると記している。
これらの文は日蓮聖人末法観とも関連するものであるが、最澄の著作の中でとりわけ後世に影響を及ぼしたのは『末法燈明記』である。
本書については最澄真撰・偽撰の両説があるが、日蓮聖人を始め源空・栄西・親鸞の、道元を除いた鎌倉仏教開祖たちのいずれもが、最澄真撰として引用し、末法無戒の論拠としているのである。
空海も「正法千年の内には持戒得道の者多く、像法千載の外には護禁修徳の者少し。当今、時は是れ濁悪、人は根劣悪なり」(秘蔵宝鑰)と記している。
日本においては正法像法各千年としたので、仏滅を紀元前九四九年とすると、永承七年(一〇五二)が末法第一年に当るとされ、この年が近づいた平安時代中期以後になると、末法が深刻に意識されるようになった。
源信は『往生要集』を著して「夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足也」と述べ、永観も『往生拾因』に「西方の要路は末代に縁あり」と記して、ともに浄土教が末代の時機相応のであることを強調した。
そして中央政府の統制力が弱体化して治安が乱れ、地震や大風や大火、旱魃などの災地変の続出と共に悪疫が流行するなど、正に経論に説く通りの五濁悪世の現実化したような状態を眼前にし、更に僧兵の乱暴など既成仏教教団の堕落と併せて仏法の破滅、末法法滅が社会的な広がりをもって人々に受けとめられるようになった。
院政期以降、平安末期に末法意識は次第に深化を遂げ、深刻な自己反省が加わり、やがて新しい形成の基盤となったのである。

 鎌倉新仏教は、いずれもこの末法意識と対決するところに成立している。
浄土宗の開祖法然上人源空は『選択集』に道綽の『安楽集』を引いて「当今は末法、是れ五濁悪世なり。 唯だ浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」との自覚のもとに、末法の現実に生きる自己を内省し、一切の諸経諸仏を「捨閉閣抛」し、専修称名念仏の一行を末法相応のえとして選択したのである。
更に『無量寿経』の「特留此経止住百歳」の文を釈して「諸行往生は近く末法万年の時に局り、念仏往生は遠く法滅百歳の代を霑す」と述べ、また「遠く末法万年の後の百歳の時を指す也。(略)念仏往生の道は正像末の三時及び法滅百歳の時に通ず」と述べて、念仏の一行の永遠を主張している。
源空の弟子の親鸞も末法の時機について『教行信証』に「三時教を按ずれば、如来般涅槃の時代を勘るに、周の第五主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで二千一百八十三歳也。また賢劫経・仁王経・涅槃等の説に依るに、已にもて末法に入りて六百八十三歳也」と記している。
そして「信(まこと)に知ぬ、聖道の諸在世正法のためにして、全く像末法滅の時機に非ず。已に時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世正法、像末法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうなり」と述べて、末法濁悪の時代の道俗は浄土の一門に依って他力念仏の実践に専心することを強調したのである。
臨済禅を唱えた栄西は『興禅護国論』に「栄西、此の宗の絶ゆるを慨し、且つ後五百歳の誠説に憑み、廃を興し絶たるを継がんと欲す。方と云い、時と云ひ、已に仏説に契う。何ぞ機縁無しと言わんや。彼の如来円寂の周の穆王の五十三年壬申の歳より、日本の当今建久九年戊午の歳に至る。二千一百四十七年なり。然れば今是れ後五百中の第二百年なり」と述べ、末法今時に禅の廃絶することを歎きつつも、仏滅年代を計算して末法の時なることを確認し、末法の時こそ持戒持律による禅法の実践を力説し、更に日本は正しく禅の行われるべき勝境であることを説いて、末法法滅思想に伴う辺土・辺国の意識を超えて、禅仏法の絶対を強調しその実践を強く主張したのである。
また曹洞禅を唱えた道元も『永平広録』に「況んや、今末法に値い澆運に当る。縦ひ頭燃を救い精進勇猛すと雖も、恐らく正法像法の時の人に斉しからず(略)辺地の境、末法の今、人根を論ずれば、正法像法の時と今時と天地懸に殊なり、果報を論ずれば、中印度の人と我国と金沙比し難し」と述べて、一応正像末三時の相異によって得法に差があると示しつつ、末法思想を真向から否定するのである。
正法眼蔵弁道話』に「大乗実教には、正像末法をわくことなし、修すればみな得道す」と説いて、只管撃坐(しかんたざ)・修証一如を主張し、坐禅に専念すべきことを力説し、禅の三時超越の絶対性を強調し、坐禅行の精進によって末法思想を克服しようとしたのである。
更に旧教諸師の中でも、興福寺の貞慶は、時は末法五濁悪世、身は無戒無智の愚僧と悲歎しつつも、戒律を厳守することによって末法と対決しようとし、明恵上人高弁も末法辺地の非人高弁との深い内省を示し、釈尊誕生の国インドへ渡航せんと企図して果せず、しかし華厳仏光観の行に徹する激しい修行の実践によって末法思想に克とうとしたのであった。
以上のように、鎌倉仏教の諸師は末法思想と対決するのに逃避的、あるいは超越的に、あるいは積極的に、あるいは悲歎的にと、それぞれの在り方で対決し、それぞれに末法相応のえと修行を説いたのである。

 わが日蓮聖人もまた末法濁悪の謗法充満の時代と積極的に対決し、これを超克したところに独自の学を樹立されたのである。
聖人末法の認識は法華経に基づいている。
法華経は仏滅後の弘経を勧める流通分が一経の大半を占めているという構成や、経中にしばしば「滅後」「於末法中」「末世法滅時」「悪世末法」等と説かれていることは、滅後を目的としての説法であることは明らかである。
また勧持品二十行偈や不軽菩薩の化導法は末法弘通の相を示すものであり、法華経の中心寿量品における三世常住不滅の本仏の開顕、遣使還告の譬説は、いずれも滅後末法衆生救済を眼目とした説に他ならない。
聖人末法の年代算出に当っては最澄の『末法燈明記』を依用し、法華経の仏の予言=未来記に基づいて末法観を形成されたのであるが、三災七難連続して起る日本の現状を見て一層末法法滅の危意識を強めていったのである。
そして末法は濁世悪機法滅の時とする見解に対して、法華経薬王品の「後五百歳広宣流布」の文に依って、末法の初めこそ法華経の流布するであると主張した。
「恐怖世中の経文は末法の始を指す也」(定五一五頁)とする聖人の、末法悪世の五濁謗法を克服する理論は「夫れ以れば、重病を療治するには良薬を構索し、逆謗を救助するには要法には如かず」(定八九五頁)というにある。
末法の最下劣悪の時機を救済するのは、最上最勝の教法のみであるというのである。
在世の本門と末法の初は一同に純円也。但し彼は脱、此は種也。彼は一品二半、此は但だ題目の五字也」(定七一五頁)と述べて、久遠本時と末法今日とを同体として把握し、末法の時は妙法五字下種の時であり、機もまた妙法五字下種の機であるとし、妙法五字をもって末法救済の要法とされたのである(定七一七、八一六、九〇二頁)。
これは寿量品の「是好良薬、今留在此(略)遣使還告」の文から発する聖人の末法救済の論である。
しかもこの妙法五字は「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」(定一二四九頁)と述べて、末法万年を救済するのみでなく未来永遠にこの娑婆世界に久住し救済し続ける法であると、妙法五字の永遠絶対を高調している。
そして聖人は法華一経は悉く末法の時、末法の機のためなりとする「末法為正」論を主張したのである。
ち「正像末の三時の中にも末法の始を以て正が中の正と為す」(定七一五頁)、「問て云く、法華経は誰人の為に之を説くや。答て曰く、(略)滅後を以て之を論ずれば、正法一千年・像法一千年は傍也。末法を以て正となす。末法の中には日蓮を以て正と為す也」(定八一三頁)と述べて、法華経は滅後末法の救済を目的としてが説かれたとする独自の法華経観を示している。
この独特の法華経観は「逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す」(定八一三頁)といい、「流通の一段、末法明鏡、尤も依用と為すべし」(定一二九五頁)というように、寿量品を中心とし流通分の心をもって法華経を読むことによって生まれたのである。
逆次に読む=流通分の心をもって法華経を読むとは、滅後末法聖人の側に引き寄せて法華経の語っている現在の心を読むことである。
法華経は釈尊の現在に立たれて説かれたものであるが、その現在は永遠の未来を含む現在である。
その永遠の未来は末法今日の我々の持つ現在であって、釈尊の真精神は末法今日の我々の現在にあると、聖人は領受されたのである。
釈尊慈悲の世界、救済のはたらきが末法の時と機にあることを信認識し、これを「末法為正」「凡夫為正」と表現し、末法法滅思想を超克されたのである。
しかもなお「寂滅道場にも来らず雙林最後にも訪はざる」(定七一九頁)高貴の大菩薩と称揚している本化地涌の菩薩出現の時は、正しく末法の初であり、この日本国は「一閻浮提第一の本尊、此国に立つべし」(定七二〇頁)、「月は西より出でて東を照らし、日は東より出でて西を照らす。仏法も又以て是の如し。正像には西より東に向ひ、末法には東より西に往く。(略)既に後五百歳の始に相当れり。仏法必ず東土の日本より出づべき也」(定七四一頁)とあるように閻浮最勝の地である。
既には最第一の法華経の肝心南無妙法蓮華経であり、師は本仏釈尊本化の弟子たる上行菩薩であり、国もまた最勝の本時の娑婆日本国である。
は最五濁末法であり、機また最下愚悪の謗法者といえども、本化弘通の本法化に浴し、本の風光が実現されるのである。
聖人は自ら本化地涌の自覚に住し、末法救済のため法華経弘通の菩薩行に専念されたのである。
聖人は天台の「後五百歳遠沾妙道」、妙楽の「末法之初冥利不無」、伝教の「正像稍過已末法太有近」「語代像終末初、尋地唐東羯西、原人則五濁之生闘諍之時」等の文を引用し、天台・伝教等も法華経が末法相応の経たることを知り予言しているが、自己の時代が像法であったために末法を願楽していたと釈して、天台・伝教の法華弘通を限界づけ、聖人自身が正しく仏の予言された末法の導師であることを宣明されたのである。
望月歓厚『日蓮教学の研究』、高木豊『平安時代法華仏教史研究』、数江教一『日本の末法思想』、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と末法の「時」」の項、『遺文辞典』歴史篇「末法」の項、『広説仏教語大辞典』『岩波仏教辞典』「末法」の項、『新版仏教学辞典』「末法思想」の項、『日蓮辞典』「三時」「凡夫為正」「末法為正」の項
(小松邦彰)

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