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慈恩

じおん #2215

慈恩

じおん

(六三二-六八二)
姓は尉遅、字は洪道、名は窺基また単に基という。 主として大慈恩寺に住したので、尊称して慈恩大師と称する。
唐・太宗の貞観六年(六三二)長安に生れる。
一七歳のとき出家し、玄奘の弟子となり、広福寺に入った。 一説によると玄奘は彼の才能の非凡なるを見て出家をすすめたが、彼が世俗の生活に固執したので、やむなく誘引の手段としてそれを認め、この結果、慈恩は外出するのに前車に経論を積み、中車に自ら乗り、後車に妓女・食饌らを載せて通行し、よっての人は彼を「三車和尚」と呼んだという。 これはもとより実であるはずはなく、彼が『法華経』解釈について、いわゆる三車に属する学説を唱えたことに結びつけて作られた俗説であろう。
二三歳のとき大慈恩寺に移って玄奘に師事し、二五歳より玄奘の訳場に連り、同門と共に師の訳経を助けた。
経論の訳出のうち特筆すべきことは、顕慶四年(六五九)『成唯識論』の訳出である。 初め玄契は『唯識三十頌』に対する十大論師の釈を一々訳出するつもりであったが、慈恩の進言により、他の弟子をしりぞけて、ただ彼ひとりを協力者にして、護法(ダルマパーラDharmapāla)の釈を中心にして、他の九釈をこれに合釈し、一本化して『成唯識論』(一〇巻)として訳出したといわれる。 そこで、この『成唯識論』を中心とする唯識学の研究が学系を形成し、法相宗と称されるが、慈恩は法相宗の祖師とみなされる。
彼は玄奘訳出の経論を主にして諸経論に対する註釈の作成に努め、その著作はすこぶる多く「百本の疏主」と称される。 彼に帰せられる著作の中には、その真作が疑われているものが多少存するが、現存する著作を挙げれば次のようである。
『説無垢称経疏』(本末一二巻)、
『勝鬘経述記』(二巻)、
阿弥陀経通賛疏』(三巻)、
阿弥陀経疏』(一巻)、
『勧弥勒上生兜卒経賛』(二巻)、
金剛般若経賛述』(二巻)、
『般若波羅蜜多心経幽賛』(二巻)、
『大般若波羅蜜多経般若趣分述』(三巻)、
『法華経為扁章』(一巻)、
妙法蓮華経玄賛』(二〇巻)、
『金剛般若論会釈』(三巻)、
『雑集論述記』(一〇巻)、
『弁中辺論述記』(三巻)、
『瑜伽師地論略纂』(一六巻)、
瑜伽論却章頌』(一巻)、
大乗百法明門論解』(二巻)、
『百法明門論贅言』(一巻)、
『成唯識論料簡』(二巻)、
『成唯識論述記』(二〇巻)、
『成唯識論別抄』(二〇巻中四巻現存)、
『成唯識論枢要』(四巻)、
『唯識二十論述記』(二巻)、
因明入正論疏』(三巻)、
大乗法苑義林章』(本末一四巻)、
『異部宗輪論述記』(一巻)、
『西方要決釈疑通規』(一巻)。
以上のほか散逸したものが二〇部存する。
これら著作のうち法相宗の教義を確立した重要なものは『成唯識論述記』『成唯識論枢要』『大乗法苑義林章』等であり、法華経に対する解釈を述べたのは、『妙法蓮華経玄賛』である。 最後のものは唯識法相宗の立場からなされた法華経解釈として特異な意義を有している。
《慧立『大慈恩三蔵法師伝』、賛寧『宋高僧伝』四、志磐『仏祖統紀』二九、『玄奘三蔵師資伝叢書』、『遺文辞典』歴史篇「慈恩」の項、『岩波辞典』「基」の項

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