家
家
いえ
日本語の「いえ」(いへ)は住家と家族集団との両義を意味している。
英語では家屋(house)、家族(family)、家庭(home)などと使い分けているが、日本語の「いえ」は、それらが渾然として、曖昧な感がないでもない。
最も普通には建物である家屋、続いてそこに住む人間としての家族、更には精神的・物質的な生活一般を含めて家庭までも意味している。
「私の家は」と言えば、建物やその家の歴史、家柄などを意味し「うちの家」と言えば家族集団としての家庭を意味している。
本居宣長は「い」は発語「へ」は「かまど」の意としたが、大槻文彦は「寐戸」(ふしど)の義としている。
分家することを「かまど」を分けるというように使われていることも故なしとは言われない。
従って、家族は世界共通であるが、これに対して家は日本社会に特有の概念である。
家は、それを社会的に構成するものとして家族を抜きにしてはあり得ないが、家族という具体的なものを抜きにして、家は抽象的な存在であり、永続性を特色としている。
「家は万代」ともいわれている。
家の内容は長い歴史の中に社会制度の変化と共に幾度か変遷して、その実体は捉え難いが、それを構成する家族員の集団様式を通して、家の概念を捉えるほかはないようである。
即ち、家は家族を含む包括概念であると考えられる。
いわば家族によって営まれる生活共同体としての文化的・社会的な組織単位である。
しかしまた家族と家とは異質な点がある。
家族は断絶することがあり、いわば短命で有限であるが、家は永続性を願望されるのである。
家名を絶やさぬということであって、日本的特性ということができる。
その永続性は直系親のほかに傍系親をも包含し、時としては血縁でない者をも構成員となり(例えば養子、夫婦養子など)、家の永続性を守ってきている。
つまり家族の機能は、その成員の生死によって開始され、閉止するのであるが、家の場合は少なくとも数世代にわたって維持されていく。
このことは家の永続の願望の姿なのである。
即ち、超世代的な家族集団の連鎖そのものを意味している。
ある家長が死亡退隠すれば、その身分、財産、祭祀、権力などを次の世代の者が継承して新しい家長となる。
もし、実子が無くても養子という方法もあり、世代の伝承は子供の有無に関係がない。
いわゆる相続という行為によって「万代」を実現しようとするものである。
即ち、以上を総括すると、世代を超えて存続する当体としての家と、ある時点ないし世代を構成する家族または家庭と、彼らが生活するための容れ物としての家屋が互いに関連しているのである。
家族は両親とその子供、あるいはそれを中核として構成される社会集団としての単位であって、次の三つのパターンに一応大別できると思われる。
即ち、(一)両親とその子供からなる小家族、(二)既婚の兄弟(姉妹)が両親と共に構成する大家族、(三)各世代が一夫婦に限定し、居住単位の存続と願い、家長権の継承を骨格とする直系家族。
また家族の人間関係は、両親と兄弟姉妹からなる関係と、その配偶者と子供たちから成る関係とによって組合わされている。これを細分すると、(1)夫と妻、(2)父と息子、(3)父と娘、(4)母と息子、(5)母と娘、(6)兄と弟、(7)姉と妹、(8)兄(弟)と妹(姉)の異質な連帯が考えられる。
この家族関係は、もっぱら人間の生理的生命や社会的変遷の命運にかかってくるのであって、栄枯盛衰を免れるわけにはいかない。
この家族は親族へ展開してゆく。
親族とは分家、婚姻等によって同居生活集団から離脱して、そこに一個の家族(家)を構成することによって発生し、その経済生活等の諸条件によって居住を移し「世帯」の概念によって法的には把握せざるを得なくなったのである。
親族の範囲は、民法的には「六親等内の血族、配偶者、三親等内の姻族」とされており、いわゆる親類付合いの範囲は生活上の交際の濃淡によって処理されているのであって、特別な規定によるものでなく、情緒的な自然的習慣によるものとみられる。
親族に関連して「まき」あるいは「まけ」の同族的意識の習俗的な意識がある。
即ち同一の先祖をもつ同じ血筋の者―一家一門の結合性を裏づけした一種の同族意識というべきもので「まき」はそれを意味している。
現在はその範囲、限界は必ずしも明確ではないが、女系の親族は含まれず、かつ六親等以外の遠い同系の者をも含まれていたようで、親類よりは範囲は広いものと考えられていた。
「まき」にはその中心となる家があり、その家の名あるいはその家の父系から放射的に拡がったものと思われる。
そこに家筋あるいは家柄という意識の発生源があったとみられる。
それぞれの家におのおのの個性的な伝統があるという考え方である。
このことは「家」をめぐる血統あるいは血筋に関わるところであって、その家系の由緒正しさを守ろうとする意識に支えられているのである。
遠い先祖や家系を誇り、系図を尊重する気風が、現代の日本にもはびこっていることは「家」に結びついた血統意識であると同時に、先祖崇拝と家系の誇りなのである。
この家系という累代継承の要請は、各世代を貫く同一姓をもって子孫に永く伝わり、家そのものの実在の根源であった。
この家の永続性と、その家の幸福と存続と繁栄を念とする先祖の存在は、先祖の祭祀を絶やさないことの中に集中的に表れている。
この意味で必然的に家は宗教性を内在させていることになると考えられるし、また日本の宗教殊に仏教は、家の宗教として今日に至り、そこには個人的な信否は問われないところの人間あるいは子孫の務めの如く定着している。
森岡清美の所論に依れば、「仏教が家の先祖祭と結びついたのは、直接には近世の檀家制度による。
しかし檀家制度の確立に先立って、仏教が多かれ少なかれ家と結びつく現実とまた必然性がすでにあったことは、仏教が葬祭に結びついて民間に下降浸透したことと、庶民の家が小さくとも葬祭の執行単位たりうるだけの独立性をもっていたことから知られよう。
他方、明治に入って檀家制度は法的な裏付けを失い、明治九年(一八七六)には信仰自由の立場から〈一戸中甲乙宗門を異にしても差支えない〉と指令されたが、実際には依然として檀家制度が存続した。
また法律の文面でも檀家の語が次第に使われなくなり、もっぱら檀徒とか信徒の語が用いられるようになったが、寺檀の関係が個人単位に改まったわけではない。
制度の改廃に関わらず、家単位に特定宗派および寺院への帰属が決まるという形態には、変化がなかった。
家単位に宗教が決まるのは、信仰よりも儀礼に中心がおかれるからである。
その儀礼も葬式・年忌・盆・彼岸など先祖供養が主軸をなし、信仰などはお念仏でもお題目でも何でも構わないという、宗派的な好みのない状態にあるとき、いっそう家単位に宗教が決まりやすいことはいうまでもない。
それらは家の行事として、家に属する者すべてに参加を要請するのである。
信仰訓練が比較的よく行われているといわれる真宗ですら、檀徒の宗教生活の基調が先祖供養にあることは、東本願寺教化研究所が昭和二八年に石川県江沼郡下四部落(現・加賀市)について行った意識調査の結果にも明瞭に表れている。
即ち〈何故僧侶はいなければならないのですか〉という質問に対して〈先祖を祀るため〉と答えたのが、実に四四%、〈信仰の導きとして〉二三%、〈仏教の話をしてもらう〉一五%、〈精神修養〉一五%、〈日常の相談相手として〉二%であった(略)。
やはり真宗門徒の間でも先祖供養が寺を維持する第一原因であることが知られる。
この点をさらに明瞭に示すのは〈寺・僧侶・仏壇・墓のうち、何が一番大切ですか〉という質問に対する答の分布である。
仏壇が、何と五五%、墓がそれに次いで二七%、寺はずっと落ちて七%、僧侶六%となる。
仏壇・墓が一番大切なのは、いうまでもなく先祖祭の直接的拠点であるからである。
さて、この先祖とは個人の血統上の祖であるならば父方母方双方の直系尊属を先祖といわねばならないが、家の系譜と重なる直系尊属の祭りが、とりわけ重視されるばかりでなく、血統は続いていなくとも家の系譜上の祖であるなら、これまた供養の対象にされるところをみると、先祖祭の〈先祖〉とは結局、家の系譜上の先人ということになる。
このような先祖の供養が宗教生活の中核をなす以上、これに宗教的粉飾が加わるとき、宗派が家単位に決定されることは必至といえよう。
家単位に宗派帰属が決まることは、必ずしも無信仰状態を前提し、あるいはこれを随伴するものではない。
まず家単位に家に属する全員の宗派帰属をあらかじめ決定した上で、その宗教の要求するレベルまで訓練によって引き上げる努力がなされることがあるからである。
ここに宗教教育が成立するのである」(森岡清美「家と宗教」〈『家庭教育指導事典』七一頁〉)。
家単位を通して先祖との精神的な結びつきは、家の一体感である。
親族の集団を「何々家」といわれるような場合には、共通の祖先によって結ばれた一体であり、そこには深い情的なつながりがあると見るべきであろう。
この日本的家の心理的な一体感は、国全体を「家」となすことによって、家族国家観を育て、戦前においては皇室を国民の本家と見たて、国全体を「家」とすることによって、国民の皇室への忠誠を確立し、国民への政治的・軍事的な支配力を深く浸透させることとなり、家族国家論的な志向が一体化したのであった。
いわゆる忠孝一本の家族国家の意識構造である。
「この情緒的な一体感により、家族員は自分がどんなに苦労しても、それで「家」の名が上がり、あるいは「家」の没落が救われれば、それを自分の成功として喜ぶことが可能となる。
(略)この一体感が家族国家観によって国家的規模にまで拡大されると、自分がどんな低賃金で酷使されていても、日本が一等国になれば自分が偉くなったような気持ちで喜び、国のためというと進んで一身を投げうち、一億一心という号令で『言あげせず』に従う(略)国民ができ上がったのである」(岩波新書『家族制度』八六頁)。
先祖を尊崇し家系を守ろうとするところの家の意識は、家督相続によって具体化され、家の存続は、これによって万世一系的なものとなった。
即ち「いえ」は、旧民法において、戸主と家族とで構成され、戸主は戸主権によって家族を統率し、戸主の地位と「いえ」の財産は長男が単独で相続(家督相続)した。
戸主は家の全財産と祖先を祭る権利を一手に収めた。
ここに次・三男等の貧困と女性蔑視の原因が潜んでいた。
この戸主権は封建時代を通して、武士階級の手によって次第に確立され、明治憲法において法的に定着したものであり、江戸時代以来、強化されてきた家長権による支配体制―いわゆる家族制度の支柱である。
運命的に長男に生れついた者が戸主を継ぎ、家長となり、その戸主権や家督相続は勿論のこと、家族員の結婚同意権・居住指定権など、広範な法的権利が保証されたのである。
しかしながら第二次世界大戦(大東亜戦争)後の民主的諸改革は、わが国の家族制度に根本的な改革をもたらした。
『日本国憲法』第二四条は、家族のありかたについて「個人の尊厳と両性の本質的平等」に立脚すべきことを規定し、それに基づいて昭和二二年(一九四七)、新民法の施行をみるに至った。
日本国憲法において「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」(第二四条)あるいは「すべての国民は、個人として尊重される」(第一三条)は、家長権(戸主)の主君的な権力によって媒介される支配服従の関係を鎖(と)ざし、主体的人間の相互の権利と義務の関係に重点が移行したのである。
これは近代的社会において要求されている独立人格者の規範である。
この民法改正の経過の中に、家族制度復活論がなされたことは、改正後の日本人の家族生活の中にも、習俗的思考と連なって、一種の安全弁ともなっているように思われる。
昭和二九年三月、自由党の憲法調査会が発足し、一一月五日に発表された「日本国憲法改正案要綱」の説明書は次のように説いている。
「占領軍は憲法第二四条と、民法の改正によって、わが国の家族制度に根本的変改を加えた。
これは日本の弱体化という、占領政策の線に副って実行したものである。
然しわが国の従来の家族制度には、人権尊重の立場から反省すべき点があった。
家長の権限が強大であり、又、女子の地位が低かった点など、改めるのが正しいから、憲法改正に当っても、これ等の封建的色彩は復活すべきでない。
然しながら現行の憲法と之に基く教育方針が極端な個人主義の立場から、家族という観念の抹殺を図ったのは行過ぎである」と述べている。
また憲法調査会会長であった岸信介は「今の民法では『家』という観念が全くないので『家』=ファミリーというものが失われてしまい、祖先をまつり、血統を尊び、子孫に伝えるという考え方が失われてしまった。
(略)結婚は二人の男女の結びつきであるからと云って、こうした個人本位の考え方でよいものだろうか。
子は親を養う責任はないというので、年寄りは皆養老院へ行ってしまえといった調子であるが、これが日本の国情にあったゆき方だろうか。
日本の伝統や、習慣、国情にふさわしい『家』のあり方というものが、私にはどうも必要であると思われる。
そしてその『家』の精神にもとづいて国家が形成され、また国際的にも進出するもととなるのだ」(『婦人公論』昭和二九年六月号)と語っている。
これらの言葉は日本人的情緒に訴える力の強い表現であることはいなめない。
しかし、旧来の家族制度は幕を閉じ、戦後民主化の時代が始まったのである。
しかしながら今日なお、長男は後継ぎとして優位な地位にあり、農家は本家がつぶれぬように世帯を別にした兄弟姉妹が協力している姿は、いたるところに見られる。
この習俗的情念はなお強いものがあるようである。
戦後の家族の動きを見る場合、指摘せねばならぬ大きな特色の第一は核家族化のことである。
核家族(nuclear family)という言葉は、アメリカの人類学者マードック(G. P. Murdock)が、核家族と拡大家族(extended family)という用語を一九四九年に提唱してから始まるとされている。
核家族とは原則として夫婦と未婚の子からなる小家族である。
親子同居の拡大家族から、しだいに、夫婦単位に分解した家族がある。
日本では現在、地方に行くと三夫婦そろった大家族を、稀に見ることができるが、戦後ことに社会生活の変化に伴い、拡大家族の分解が急速に進んだようである。
わが国では明治中期以後、資本主義的近代産業の発展は極めて顕著であった。
それが大正・昭和に続いて今日に及んでいる。
既に大正期に入って、その九年の第一回国勢調査によれば、核家族化は全国平均で六〇%、大都市では七三・五%、中小都市では七二・六%、町村では五六・九%とその変化の様相がうかがえるが、戦後においては核家族化の傾向は急速であり厚生省資料によれば昭和三五年(一九六〇)には、全国的には六五・一%、大都市では七八・二%、中小都市では六七・八%の数を示し、昭和四〇年には、全国的には六九・四%、大都市では八一・〇%、中小都市では七一・六%と急激な核家族化への傾向と速度を示すに至っている。
この傾向は経済生活の向上に伴い生活の安定、住宅事情の緩和、職業の多角的傾向によって、今後いっそう拡大する必然性があるようである。
核家族は家の形態縮小であって、若い世代が形成する家庭がその傾向を一層強めている。
このように日本の家族の近代化は進展するがごとくであるが、現実に共同生活の単位として家形成を温存しつつ家業の直系的継承によって営まれている農村地方の家族生活においては、なお家の生活慣行や意識が存続し、また村落生活においては家制度と結合するさまざまな制度や慣行が残っていて、家の影響力となっていることを軽視することはできない。
例えば寺檀関係、神社氏子の祭礼、子女の結婚式、後継の世襲的慣行等々に殊に顕著である。
制度としての家族制度あるいは家の観念は、近代化とか民主化ということの中に、にわかに解消してはいかなかった。
永い歴史的伝統の生活感情はなお家庭の中に根をもち、親子夫婦の情愛敬慕とか自然の情の中に生き続けている。
先述のように家は、基本的には祖孫一体の血脈の流れであり、家長を中心とする男系の繋がりであった。
『家庭教育指導叢書』(昭和一九年、文部省蔵版)によれば「祖先を祀る行事こそは、我邦に於ける家の最も重要な任務であり、随ってまたその事が家の本当の姿並に使命を表わしているのでもある」と「祖先教の国」としての日本の基を家においているが、また反面「精神的には昔ながらの規範にしがみつこうとした日本は敗戦の悲運をへて、はじめて祖先(過去)の制約から解放されることとなったのである」(『家族制度』七八頁)ともいわれている。
全く背反した現実の混然とした日本の家は、法制的なものから離れて、生活の伝統的情念と、近代化(民主化ともいえる)の進展のうごきの中に次の時代への課題を背負うているのである。
《岩波新書『家族制度』、竹田聴洲『日本人の“家”と宗教』、竹田旦『日本の家と村』、川島武宣『日本社会の家族的構成』、城塚登『倫理・社会』、中井真孝『日本古代の仏教と民衆』》(三田村龍全)