本願
本願
ほんがん
仏・菩薩の因位の本誓。
仏・菩薩が過去において立てた根本の誓願(宿願)。
法華経には宝塔品に多宝仏の本願、譬喩品には舎利弗の本願、授学無学人記品には阿難の本願、五百弟子受記品には大衆の本願がそれぞれ説かれており、類似の表現は各品にわたって諸仏菩薩の「誓願」「諸願」「大誓願」「誓言」「所願」等が見られる。
これらの諸願は寿量品の仏の本願に集約される。
法華経には分身諸仏の令法久住、多宝仏の法華真実の証明が説かれているが、これは寿量品に久寿を開顕した久遠釈尊の本願を証明し実現せんとするものであるから、二仏の誓願も久遠の本願に包摂されることはいうまでもない。
久遠釈尊は諸仏を所従とする唯一の教主であるゆえに、釈尊の本願をもって一切諸仏の本願を代表せしめるのである。
久遠釈尊の本願とは寿量品の「毎自作是念」に求められる。
「毎自作是念」は末代幼稚の衆生救済を本意とされる釈尊の大慈大悲にほかならない。
釈尊は末代衆生の救済を願って久遠の本因を修し、今なお「未尽復倍上数」の行化をされているのである。
このような未来永劫にわたって衆生を済度される釈尊の慈悲行を本願と称するのである。
末代における本願の満足は我等の五字受持にある。
日蓮聖人はこれを『観心本尊抄』に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)と述べられている。
五字の受持は釈尊が我らに与えられた必然の要請(本願)である。
したがって五字受持による自然譲与に釈尊の本願の満足があるのである。
《『遺文辞典』教学篇「本願」の項、『岩波仏教辞典』「本願」の項》