自然譲与
自然譲与
じねんじょうよ
妙法五字の受持によって釈尊の因行果徳を自然に譲り与えられることをいう。
『観心本尊抄』には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)と述べられている。
この『観心本尊抄』受持譲与段は「我等劣心具仏法界」の難信に答えて、具足の義を論証されたものである。
即ち具足の義を論証するに三経四疏を出し、妙法五字に釈尊の困行果徳を具足する事実をふまえて、五字の受持に仏果の自然譲与を論じられたのである。
当然、自然譲与は受持を媒介として成就する。
我らはただ五字の受持であり、釈尊は我らの受持に呼応して仏果を自然譲与したもうのである。
受持と自然譲与はこのような我らと釈尊の感応道交の世界をいうのであるが、それは我らの求めたものではなく、釈尊によって与えられたものである。
釈尊の慈悲を我らの信において受領するのが受持・自然譲与にほかならない。
日蓮聖人の初期の遺文には無媒介成仏論もみられるが、教学樹立の過程の中でしだいに密教的な色彩は超克されていき、法華経本門に立脚した成仏論が展開されるようになる。
法華経の具足論の主流は十界互具論であり、これを論証するのが『無量義経』の「雖未得修行六波羅蜜、六波羅蜜自然在前」、法華経の「無上宝珠不求自得」、『涅槃経』の「不求解脱解脱自至」等の文である。
『開目抄』には法華経だけがいだく「一念三千の玉」をもって「愚人も仏因を種」えると一念三千仏種の成仏を述べ、これを受けて『涅槃経』の文を引き「我並我弟子諸難ありとも疑心なくわ自然に仏界にいたるべし」(定六○四頁)と、受難のなかの無疑心という積極的・能動的な法華経の信心に「自然至仏界」を説かれている。
『日妙聖人御書』には妙の功徳を論じ、あたかも『無量義経』の文を受けたかの如き筆法で「一善も修せざれども六度万行を満足する」(定六四四頁)と、功徳の満足は「法華経を得心」ことによって「彼の功徳の全体をうけとる故」であるとして、法華経への能動的な行為を媒介とする功徳の譲与を説示されている。
『観心本尊抄』は前述の如く三経四疏を引いて自然具足義を論証し、受持の成仏を教示されている。
『四信五品鈔』にいたると唱題の功徳を「耆婆が妙薬」等になぞらえ「小児乳を含むにその味を知らずとも自然に身を益す」、「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、その義に非ず、唯一部の意のみ。
初心の行者その心を知らずとも、而も之を行ずるに自然に意に当也」(定一二九八頁)と述ベ、「自然益身」「自然当意」を論証されている。
以上のように自然譲与は法華経の信心の行為にそくして成就するものである。
それは受持という自力的行為がじつは自然譲与という超越者からの他力的な用(はたらき)に裏づけられたものであることを意味している。
自己否定を本質とする受持なる信は自然譲与という釈尊の慈悲にそくして成就するのである。
受持が自然譲与であるのは受持の対象である妙法五字が釈尊の因行果徳であり、釈尊の意志であるからである。
即ち妙法五字そのものが因行果徳の自然譲与を毎に発動しているのである。
なぜならば妙法五字は因果具足の玉(一念三千)にほかならないからである。
従って妙法五字の受持とは釈尊そのものを受領することであり、それが成仏の意味でもあるのである。
《茂田井教亨『観心本尊鈔研究序説』、『遺文辞典』教学篇「自然譲与」の項、『日蓮辞典』「自然譲与」の項》