妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

信心

しんじん #630

信心

しんじん

信は大乗において非常に重んじられている。
信は仏道に入る第一歩であって、菩薩の階位五十二位のなかで十信の位は最初の位とされる。 また五根・五力のなかで信根・信力は最初のものとされている。 『華厳経』(旧訳本)巻六の賢首菩薩品には「信は道の元、功徳の母となす」と述べられ、『大智度論』巻一には「仏法の大海には信を能入(信こそが能く入らせる契)となす」と述べられている。 これを承けて信心とは、を疑わない清らかな心とされる。

(1)日蓮聖人は『法華題目鈔』に「夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす。 五十二位の中には十信を本とす。 十信の位には信心初也」(定三九二頁)と述べられている。 この文章は大乗仏教の信心の一般性に通じているが、日蓮聖人にあっては、末法においては五逆・誹謗正法の悪機・愚機が充満していること、それを見通して教主釈尊がどのように領受を凡夫に示しておられるのかが大きな課題となっている。 なぜなら法華経は最高の義によって立っていると学者たちに理解されながらも、浄土教の人びとは、法華経の教理は深いが、末法にあってはそれを解する人がいないと批判しているのである。 これを「深解微(りじんげみ)」という。 そこで日蓮聖人は法華経を繰返し解読し、遂に法華経は末代の人のために説かれた大いなるえであることを見極められた。 つまり、末法に充満する・愚の者は、一念の信によって救われるとされる。 何を信じるかと言えば、教主釈尊の随自意(本意)を説き明かされた法華経を純一に信じるのである。 そして「法華経の題目は八万聖教の肝心、一切諸の眼目」であるから、題目を一心に信受することが最も重要なことになってくる。 『維摩経』等に説かれるように、凡心を開発してこそ仏性が開顕されるのである。 ここに法華経を正直の経とし、信を重視するゆえんがある。 そこで、例え悟りに到達しない鈍根であっても信心のある者は正見に到達するのであり、その反対に証悟への道に向っており、一定の証に達していても、信心を失った者は誹謗闡提の者であると断定する。 このように日蓮聖人は法華経を純一に信受すること、ち一心に題目を信受することを勧奨した。 そして、分別功徳品に示される四信の最初の一念信解、五品の最初の初随喜を法華経の信のありようを示すものとした。

(2)日蓮聖人は身を死(ころ)して法華経を弘通され、その結果、次々と法難に遭われた。 それを日蓮聖人は「今ま日蓮強盛に国土の謗法を責れば、此大難の来るは、過去の重の今生の護法に招き出せるなるべし」(『開目抄』定六〇三頁)と示された。 つまり、大難に遭っても、末法の衆生の救済を予言された教主釈尊の教えを絶対に捨てない覚悟が「法華経の信心」として語り示されている。

(3)『観心本尊抄』に教主釈尊の救いの世界を「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり」(定七一二頁)と示され、題目受持の意義を説いて、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。 我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)と語られているのは、絶対信に住する信仰の帰結を明らかにされたものである。 次上のように法華経の信心を本と為すことを信心為本(しんじんいほん)と称する。 浄土真宗でも信心為本という用語を用いるが、その内容は阿弥陀仏の絶対他力を信ずることであり、日蓮聖人の信心為本とは全く異なるものである。 日蓮聖人滅後、信心為本は教義の基本とされ、それは信心正因・信心正行として継承された。 また信心の当所に即身成仏が保証されるという信心成論が唱えられた。 また正行助行論に関わって、信心行智解助行が唱えられた。 そのように信心が重視されることによって、信心相応の一念の意義が探求された。 総じて、信心為本は教義の要として継承されたが、余宗が西欧の精神現象論的な意味での省察を行っているのに対し、日蓮教学においては信心義的構造に基づく実践が強く指向されている点に特色がある。 しかし今後はそのような追求も必要な課題として認識されなければならないであろう。
《『日蓮辞典』「信心」の項》

リンク

← 事典トップ