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即身成仏

そくしんじょうぶつ #996

即身成仏

そくしんじょうぶつ

父母所生の肉身のままで成仏すること。
一生成仏も同意。
法華思想史上、、初めてこの用語を使用したのは中天台宗六祖湛然(七一一-七八二)で、『法華文句記』の提婆品釈において竜女の「忽然之間変成男子」の経文、および「胎経に云く、魔梵釈女皆身を捨てず身を受けずして悉く現身に於て成仏することを得たり」の天台釈を受けて、これを「即身成仏」という。
ただしまた「成仏」「成仏速疾」「現身成仏」ともいうから、竜女成仏即身成仏と命名したわけではない。
次が伝教大師最澄(七六七-八二二)で、『法華秀句』の「即身成仏化導勝八」で竜女成仏に即身成仏の名目を与えた。
以後、即身成仏は叡山のすべての学匠の重んずる論目となった。
その要点は、一に即身成仏は入住以上の聖位を指す。
その証拠に前章には「身六根互用勝七」を置き、六根清浄の功徳を得る相似即十信位を即身成仏の章から別出している。
また文中には「是れ則ち分真の証なり」「是れ則ち円教の三不退なり」等とあり、初住以上の分真即を指して即身成仏としていることがわかる。
円教の初住以上を成仏とすることは『法華玄義』位妙にも明らかなように、天台教学の通判であるから、最澄の即身成仏論は中国天台の円教位階論の祖述であり、これに即身成仏の名を与えたにすぎない。
しかし日本台は以後、即身成仏の名において円教位階論を研鑽し、やがて凡位と聖位との差を縮めることになる。
二に即身成仏一生成仏に限らず、三生成仏までとした。
故に「能化所化倶に歴劫無く、妙法経力即身成仏す。上品利根は一生成仏し、中品利根は二生成仏し、下品利根は三生成仏す」といい、その経証として『普賢経』を引く。
『妙一女御返』に「(伝)教大師は分段の身を捨てても捨てずしても、法華経の心にては即身成仏也。(慈)覚大師の義は分段の身をすつれば即身成仏にあらず、とをもはれたるが、あへて即身成仏の義をしらざる人々也」(定一七八○頁)といわれるのはこの意である。
奈良教、ことに法相宗歴劫修行観に対する平安仏教の特徴は即身成仏にあり、一方では弘法大師空海(七七四-八三五)も盛んに即身成仏を鼓吹した。
既に将来本の中に『菩提心論』があり、中の「唯真言法中即身成仏故是説三摩地法 於諸中闕而不書」の語は有名である。
また『弁顕密二教論』『即身成仏義』『大日経開題』『心経秘鍵』『付法伝』等を著して即身成仏に言及したが、これらの著作、中でも『即身成仏義』の六大・四曼・三密による即身成仏義最澄滅後の成立である。
また法相宗を代表して最澄と論争した徳一の唯一の現存著作である『真言宗未決』一一条中第三条に「即身成仏疑」があり、行不具失と欠慈悲失との二面から即身成仏を疑った。
以上の三人によって即身成仏義は日本仏に定着した。
最澄に始まった法華系の即身成仏論は直弟達にも引継がれた。
初代座主義真(七八一-八三三)は『天台法華宗義集』において智顗・湛然の著述中から一生入住・一生登地に関する文章を拾い出し、二代の円澄(七七一-八三六)は『唐決』三〇問中第五に「仏果隔生の有無」を問い、等覚から妙覚に登るときは元品の無明を断ずる故に無明所感身も消滅する、つまり隔生があるのではないかという。
徳円の『唐決』一〇問中第八には「即身成仏無明所感之身捨不捨疑」がある。
円澄は変易身の捨不捨を問うたが、今は分段身の捨不捨の問題で、正しく即身に関する柄である。
別当光定(七七九-八五八)の『唐決』六問中第三には「即身成仏は初住に在りと為んや、後は相似に在りと為んや」の問があって注目に価する。
台教学の約束では相似十信位までは凡位、分段身による修道であり、分真初住以後は聖位、変易身による証道であるから、入住のときは分段身を捨てて変易身を得ることになる。
故にもし十信の後心に即身成仏の名を与えることが可能ならば、文字通りの即身成仏義が成立するわけである。
これに対する長安の宗頴の答は、入住の功は相似後心にあるから、即身成仏は果に従うならば初住以後にあるが、功績に従うならば相似後心にある、つまり華厳宗でいう信満成仏というものであった。
これにより相似六根清浄位を即身成仏からはずした最澄の教学は越えられたわけであり、成仏圏を上位から下位へ拡大しようとする試みは、その勢の趣くところ、やがて名字即成論を生み出すことになるわけで名字即成の下地はここに成立した。
徳円・光定の疑問を宗頴に提示した人は円仁であるから、第三代円仁(七九四-八六四)の密教即身成仏論は相似位を尊重する。
金剛頂経疏』には「若し秘教に依って修行せば劫数を歴ずして現生に証得す。此に於て応に似と分と究竟と有るべし。若し似の仏眼は凡位に之を得ん」(日蔵密教部章疏下一ノ三四九上)等という。
かくて第五代智証大師円珍(八一四-八九一)は『授決集』の「須弥内芥子決八」において「我輩若し此の如き妙理を会せば、名字より能く解脱を証し、山を以て芥に納る」等という。これ正しく名字即成の論である。
日蓮聖人が唱題による凡夫即身成仏、名字即成を示されたことは周知のことであるが、更に真言宗の即身成仏生身得忍に似たり、あるいは生身得忍ですらないとする意見が『太田殿女房御返』(定一七五八頁)、『妙一女御返』(定一七七八・一七九七頁)に見える。
生身得忍(しようしんとくにん)とは『断二四〇』に図表があり、それによると「断見思塵沙無明」によって得られる相似十信の位であり、不断煩悩の即身の成仏ではない。また『妙一女御返事』(定一七九七-九頁)には即身成仏に迹門と本門との二種ありとする。
文証は迹門の竜女成仏にあるが、迹門は「能入の門」、本門は「所詮の実義」であり、迹門は「理具」、本門は「事」であり、「当位即妙本有不改と断ずるなれば、肉身を其まま本有無作の三身如来と云へる是也」(定一七九八頁)と。
なお即身成仏に関する最優先的な教示は、『本尊抄』の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)の文であり、そのとき「妙覚の釈尊は我等が血肉也、因果の功徳は骨髄に非ずや」(同頁)となる。
《浅井円道『上古日本本門思想史』、『遺文辞典』教学篇「即身成仏」「即心成仏」の項、『広説仏教語大辞典』「即身成佛」の項、『日蓮辞典』『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』「即身成仏」の項

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