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法華宗

ほっけしゅう #3845

法華宗

ほっけしゅう

法華経を依経とする団の総称。
日本では法華宗天台宗と日蓮法華宗とに二大別される。
日蓮聖人真蹟遺文によれば、聖人の用いた法華宗の呼称には二つの内容が考えられる。
一つは、中・日本の天台法華宗を内容としている天台大師智頭を実質的開祖とする中国天台宗、それを将来した伝教大師最澄を開祖とする日本における八宗、あるいは九宗・十宗の一つとしての日本天台宗を、聖人は法華宗とよんでいる。
また『一代五時図』(定二二八一-八八頁)では、法華経の所説が、諸仏依憑宗・仏立宗天台宗法華宗・秘密宗・顕露彰灼宗の根拠であることを示している。
用例のほとんどは日本・中の天台法華宗を指しているが、『顕仏未来記』の三国四師の段では最澄の『法華秀句』の「天台大師は釈迦に信順し、法華宗を助けて震旦に敷揚(ふよう)し、叡山の一家は天台に相承し、法華宗を助けて日本に弘通す」との発言を承けて「安州の日蓮は恐らくは、三師に相承し、法華宗を助けて末法流通す」(定七四三頁)といっている。
ここでの法華宗には、宗派としての意味よりも、法華を意味することの方が強いといえよう。
聖人が自説を信奉する人々の集団の呼称として法華宗の呼称を用いた例はなく、「我が一門」「予が一門」とよんでいるのみである。
聖人没後、日蓮門徒の自称・総称としての法華宗が、いつごろから現れてくるかは未詳である。
直弟の法華宗の自称は見られない。
しかし法華宗の自称と他称とは、鎌倉代末・南北朝代に至って見え始める。
においては、中山門流の日祐の『問答肝要抄』『宗体決疑抄』にこれが見え、京畿では、日像によれば、諸方の日蓮門徒が法華宗と名乗って院宣・御書(みぎようしよ)を望んでいたという。
その日像を洛中から追却する延慶三年(一三一〇)の伏見院の院宣には、日像ら一類の僧徒を指して法華宗といっている。
このころ日蓮門徒の自称・他称として法華宗の呼称・宗号があったとしてよいであろう。
しかし外側からは、例えば寛正六年(一四六五)の日住の諫暁に刺激されて京都法華堂追却を企てた山門の僧徒の事書に日蓮宗とあったり、貴族山科言継(一五〇七-七九)が「立本寺上人日蓮宗也」とその日記に注しているように、日蓮宗とよばれてもいた。
日蓮門徒法華宗の宗号を称することに対して、同じ法華仏教であり、その正統たることを自任する天台法華宗=山門がこれを問題にしないはずはなく、京都妙顕寺の日霽(につせい)のころ、山門から法華宗と号するは、天台の法華宗の号の盗用と訴えられたが、建武元年(一三三四)日像に賜った後醍醐天皇の綸旨の一節に「殊に一乗円頓の宗旨を弘むべし」(原漢文体)とあるをもって、一乗円頓の宗=法華宗であると陳述して、これをしりぞけたという。
更に『龍華秘書』所収の妙顕寺「歴代略伝」には、同寺日広の代、天文年中にも、宗号のことを山門が訴えて対決が行われ、日紹の代、慶長年中には浄土宗から宗号についてのクレームがあり、これまた対決している。
右の宗号をめぐる対決には、妙顕寺だけでなく、妙覚・本・立本・本能・頂妙の諸寺から要員が出席している。
近世においても、日蓮団は法華宗を号してきた。
近代に至り明治五年(一八七二)、それまでの一致・勝劣両派が合同、同七年両派は分れ、同九年一致派の新居日薩は日蓮宗の公称許可を得た。
これより先、円光房日陣(一三三九-一四一九)を派祖として越後本成寺を本寺として独立していた法華宗陣門流はただ法華宗ともよばれたが、同じ明治九年日蓮宗本成寺派と称して独立、同三一年法華宗と改称。
昭和一六年(一九四一)、当の各派合同の機運のなかで、従来の法華宗日隆門流本門法華宗および日真門流の本妙法華宗の三派が合同して法華宗と称した。
しかし第二次世界大戦後、この法華宗法華宗陣門流・同本門流(日隆門流)・同本妙流(日真門流)の三派に解体分立していった。
昭和二七年のことである。
《宮崎英修「宗号論争」『続・日蓮宗の人びと』、『遺文辞典』歴史篇「法華宗」の項、『国史大辞典』一一巻「日蓮宗」の項》

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