宗号論
宗号論
しゅうごうろん
日蓮宗という宗号を公許されたのは明治九年(一八七六)のことで、それまでは「法華宗」ないし「法華宗一致派」などと呼ばれていた。
日蓮宗がこのように「法華宗」の称号を用いるようになったのは、建武元年(一三三四)四月一四日に妙顕寺に下された綸旨による。
即ち、この綸旨の文言に「殊に一乗円頓之宗旨を弘め」よとあり、「一乗円頓之宗」即ち「法華宗」のことであるとする。
ところが、この「法華宗」という宗号をめぐって、天台法華宗を宗号とする比叡山の同宗から、たびたび圧力がかかった。
中でも京都日蓮宗の中心寺院と見なされる妙顕寺は、宗号をめぐって比叡山から攻撃を受けることしばしばであった。
このように、「法華宗」という宗号をめぐって日蓮宗と天台宗との間で闘わされた論争を、日蓮宗では「宗号論」と呼んでいる。
妙顕寺の所伝では、宗号論は三回ほど行われている。
第一回は応永元年(一三九四)同寺四世日霽の時、第二回は天文四年(一五三五)同寺八世日広の時、第三回は慶長元年(一五九六)同寺一一世日紹の時である。
第一回の時は、比叡山から日蓮宗に対して天台の法華宗号を盗用するものと攻撃されたが、妙顕寺日霽は「宗号の綸旨」を示してこれを退散させたという。
ただし『日蓮教団全史』上は、第一回目の宗号論を事実ではなかったと否定している。
第二回は天文四年で、叡山が将軍足利義晴に日蓮宗の天台法華宗号の盗用を訴え、これを停止するよう求めた。
そこで幕府側から奉行五人と、叡山側と日蓮宗側それぞれ五人出席して対論し、宗号綸旨を日蓮宗側から示して事なきを得ている。
第三回は、慶長元年一〇月一二日に、浄土宗から宗号の難状が豊臣秀吉に提出された。
このため一五日に伏見城へ召喚され、奉行の前田玄以の前で、日蓮宗と浄土宗の僧が対決した。
この時、日蓮宗側では宗号の綸旨を読みあげて提出したので、浄土宗は閉口したのである。
建武元年日像に下された「宗号の綸旨」が、日蓮宗の歴史の中で大きな役割を果したことを窺うことができる。