前田玄以
前田玄以
まえだげんい
(一五三九-一六〇二) 戦国期の武将で、実名は孫十郎基勝、剃髪して半夢斎と号し、徳善院と称する。
茶名は宗向、美濃国(岐阜県)に生まれ、叡山で天台を学び僧正にすすむ。
織田信忠に仕えて七〇〇〇石を知行し、天正一〇年(一五八二)、本能寺の変に信長の命令で岐阜に逃れ、嫡男三法師丸(秀信)を清洲に移して長谷川丹波守と共に保護した。
翌年織田信雄の命で京都の庶政を担当、この頃法印に叙せられ、民部卿と称した。
のち羽柴秀吉に重用され、丹波国(兵庫県)亀山城主五万石の大名となり、天正一三年七月に京都の奉行に任ぜられ、五奉行の一員に加わり、公家・寺院および庶政を担当した。
天正七年の安土宗論以来、逼塞を余儀なくされていた京都の日蓮宗は、同一三年秀吉によって全面的に公許され、諸本山も復活した。
この日蓮宗免許の文書発給者が玄以である。
また安土宗論の中心人物であった仏心院日珖らが、織田信長に提出した敗論、逼塞の信文を併せて返還している。
博学多識の学僧武家で、京都の各界の文化人との交流がすこぶる多い。
関ケ原戦後も徳川家康に所領を安堵されたが、慶長七年五月七日に七四歳で没した。
《『寛政重修諸家譜』、『本化別頭仏祖統紀』、『国史大辞典』一三巻「前田玄以」の項》