事
事
じ
理に対する語で、理とは不生不滅にして普遍・平等なる真如実相を指し、かつ不可見の潜在性であるに対して、事とは因縁生滅する個別的・差別的な森羅万物であり、かつ顕在的な現象の相である。
(一)天台宗でいうところの理とは、『法華玄義』七上に六重本迹の説あり、その第一に理事本迹を説いて「無住の本より一切法を立す。
無住の理とは即ち是れ本時の実相真諦也。
一切法とは即ち是れ本時の森羅俗諦也。
実相の真本に由りて俗の迹を垂る云云」という。
これによると、理とは実相・真諦であり、一切万象の本源である。
事とは森羅万物なる俗諦であり、実相真諦なる本源の垂迹である。
従って先の一般的定義とほぼ一致する。
『維摩経玄疏』四にもほぼこれと同様の説がある。
しかし天台宗に於ては、事理不二とは立てるものの、事よりも理を優先し重視する。
理の方を基本に据えるからである。
『摩訶止観』巻四上の第六方便章で二十五方便を説く中に、事戒と理戒、事懺と理懺、事の呵五欲と理の呵五欲、事棄と理棄、事調と理調を明すが、何れも一心三観に基づく理の方を優位に置く。
その他、化法四教では蔵・別両教を事教、通・円両教を理教とし、或いは事観(唯識観)と理観(実相観)(『止観義例』)、理具と事造(『指要鈔』)等においても理の方を優先する。
(二)真言宗には教相と事相とがあり、教相では教判・教理を論じ、事相では行としての三密有相の行の実修方法を説き且つ行ずる。
殊に台密では慈覚大師円仁以来、善無畏説・一行記の『大日経義釈』の説に順じて、日蓮聖人も指摘されたように理同事勝を説き、教理に於ては円密は同味であるが、事相三密の説不においては円劣密勝であると立てた。
ここにおいて事は理の優位に立ったが、これは理事の教行相対であり、六重本迹でいえば第三の教行本迹に相当する(但し天台では教本行迹)。
また円仁は密教の事相における優位を説くのみならず、教相においても俗諦常住を重んじて、事の現実を常住において価値づけようとする。
『慈覚大師伝』によると円仁は最澄に入門の当初から常に俗諦常住に心を掛けよと教えられていた。
また現に『俗諦不生不滅論』なる著作があり、更に『金剛頂経疏』の釈名段には「法華に是法住法位と云ふ、今正しく此の秘密の理を顕説する故に金剛頂と云ふ也」とて、方便品の「是法住法位世間相常住」の理つまり俗諦常住の理を説く点に於て円密は理同であるといい、『蘇悉地経疏』の有名な理秘密・理事倶密の相対判では「世俗勝義円融不二なる、是を理密となす」とて法華等の諸一乗教を理秘密教に摂するが、世俗勝義円融不二とは勝義の真諦ばかりでなく、世俗の俗諦も常住であるということで、ここに俗諦の事、差別当相こそ我等人間に日常卑近な問題であるとして、これを理よりも優先し、これを常住において価値づけようとする叡山教学の出発を見ることになる。
(三)日蓮聖人の事の思想は佐渡配流以後漸く顕著となり、天台宗は理、自己は事、天台宗は迹面本裏にして像法過時の宗教、自己は本面迹裏にして末法相応の法華経と規定して、本門事の法門を専ら展開された。
事の法門が如何なる意味内容を有するかについては、聖人にはまとまった教示はなく、従って聖人の生涯並びに佐渡配流後の遺文を通観して概念を握む以外に方法はない。
故に古来幾多の先師が聖人の宗教の特質を明確化せんと努力を重ねてきたが、今は望月歓厚の論文、「日蓮聖人の宗教に於ける事の本質的構造」「日蓮の事の表現」(『日蓮教学の研究』所収)によると、後者の論文に於いて事の法門を構成する要素を一四項目にまとめている。
「一、果上事 因理果事を相対して仏果上の顕現を事とするもの(略)故に『本尊抄』には″釈尊因行果徳二法″具足の妙法五字を受持の法体とするのである」と。
一念に冥伏して在り、性具される三千世間を淘汰して、釈尊の因行果徳の二法が自然譲与されると表出する時、十界の性徳ではなく、仏の果上証得の事徳を行者は具有することになるという面が強調されて来る。
最も果上所証の法身の一身一念の周徧法界は特に妙楽が力説した身土三千論に外ならない(→しんどふに・身土不二)から、法界に遍満した仏徳を理具の仏性として受けとるか、実成の仏が己心に住し給うことと信ずるかによって理と事との相違が発生することになる。
「二、乗種事 既に果上修得の法仏の基礎に立教するから、その投与の法は乗法である。
故に“一念三千仏種”(定七一一頁)“諸尊の種子皆一念三千なり”(定五七九頁)等という言葉は何れも乗種であって、性種ではない」と。
性種とは一切衆生に先天的に具有される仏性であり、乗種とは下種されて始めて具わる仏種である。
『本尊抄』にも「我等此五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」とあるから、釈尊の因行果徳または仏種は衆生本具ではなくて、受持の行を媒介として釈尊から譲与されるものとして表出されている。
「三、教乗事 『開目抄』に“一念三千の大綱骨髄たる二乗作仏久遠実成”(定五七一頁)とあって、法華説相の二大事実は人間最高の事実であるとして、事法門の最極とする。
教化救済の最大事実をもって至理に価値づけんとしたところに、法華経の教乗的事がある」と。
換言すれば「智顗が法華経の本質を実相なる体玄義に於て把握する、いわば経典法華経のもつ本質的価値を重視し、これを概念的に抽出することによって自己のものとする受容態度に対し、聖人の受容は法華経そのものを久遠の釈尊の全体として、全一的に純粋に受容しようとする態度の相異である」(「日蓮聖人の宗教に於ける事の本質的構造」)。
「四、単一事 五字七字の単一の題目に一代の教法、法華経一部を収め尽したのを事という。
『本尊抄』に“南岳・天台等(略)百界千如一念三千、其義を尽せり、但だ理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字竝びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず”(定七一九頁)という。
三千の広さを五字に収め、八万の法蔵を題目に摂して、“日蓮は広略を捨てて肝要を好む。
所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字也”(定八一六頁)とする、雑多を捨てた単一性を事というのである」と。
「五、口唱事 観念禅思を去り、専ら信唱受持を勧進するのは単一五字の法に相応する能修の行法である(略)即ち行法の事である」と。
無相の観念観法に対する有相の末代観心たる口唱題目である。
三業受持中の口業である。
「六、信心事 口唱成仏を可能ならしめる根本要件は、智解を去って撰取する信心でなければならない。
“仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。
慧も又堪へざれば、信を以て慧に代ゆ。
信の一字を詮となす”(定一二九六頁)という。
信の一字こそ事三千の基礎というべきである」と。
三業受持中の意業である。
「七、化他事 “正法には天親菩薩・龍樹菩薩(略)像法には南岳・天台亦題目計南無妙法蓮華経と唱給て、自行の為にして広く他の為に説かず。
是理行の題目也。
末法に入て今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘る南無妙法蓮華経也”(定一八六四頁)という。
天台を理行、自らを事行とする。
自他に亘るというのは法界同共の成仏に徹するを意味する」と。
南岳慧思・天台智顗の唱題の事実は『法華懺法』に認められる。
それは道場内での修法であって、道場の外への外延性を持たない。
ここに南岳・天台の唱題は自行のみ、自己の唱題は自行化他にわたるという相違の認識が生れ出る。
またこれはエリートのための仏教の庶民化でもある。
「八、色読事 『土籠書』に“法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ”(定五〇九頁)といえるは、弟子日朗に与えた消息である。
而して自らは法華色読の行者として“誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん(略)法華経の行者は誰なるらむ。
求めて師とすべし”(定五九九頁)と確信を示している」と。
三業受持の中の身業である。
「九、事証事 『本尊抄』には十界互具一念三千を実証するに“悉達太子は人界より仏身を成ず。
此等の現証を以て之を信ずべき也”(定七〇七頁)といい(略)『破良観等御書』にも“道理現前ならんを用べし”(定一二八四頁)という。
仏説の不虚と信仰の堅固を物語ると同時に、観念や虚仮を捨てて行動的実証を貴ぶ」と。
『撰時抄』に「余に三度の高名あり」とて三度の予言を称して「日蓮が申たるにはあらず。
只偏に釈迦如来の御神我身に入りかわせ給けるにや。
我身ながらも悦び身にあまる。
法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」(定一〇五四頁)といわれる。
これ一念に三千を性具する、一身に釈尊を事具することを信解するばかりでなく、事具する証拠を積極的に外部に表出し、実証するところに事の所以があると示されるところで、この項に入る。
「一〇、有相事 『撰時抄』に自己予言の的中をもって一念三千の大事の法門といい、次で“十如是の始の相如是が第一の大事にて候”(定一〇五四頁)という。
沈潜の体より表現の相に意義を認め、理念より現実に実相を発見しようとする。
“草木にも成り給える寿量品の釈尊也”(定五三三頁)の観念に立脚する現実尊重の思想であろう」と。
沈潜の体、理念とは理性真如であり、表現の相、現実とは事相差別の世界である。
「一一、法界事 かくの如き思想は自他の成仏、法界の成仏に拡大される(略)“一念三千の仏と申すは法界の成仏と云事にて候ぞ”というものである」と。
一天四海皆帰妙法の理想をいうか。
「一二、世法事 (略)世間法の開顕が随伴しなければならない。
『事理供養書』には、金光明経の世法即仏法の文、涅槃経の外道経書皆是仏説の文を引き、“彼々の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法によせてしらせて候。
法華経はしからず。
やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候”(定一二六三頁)という(略)政治王法に関連しては(略)『三大秘法抄』(定一八六二頁)に王仏冥合の戒壇の法門が主張される」と、それ真諦俗諦円融不二、俗諦常住の法門に相当する。
「一三、人間事 『本尊抄』の説相は三千から十界に、十界を本因本果に、更に仏と人間との相対に集約する。
『法華取要抄』には法華経は凡夫為正なるを論じ、『本尊抄』には“末法の始、予が如き者の為也”(定七一九頁)という。
これを『崇峻天皇書』には端的に“教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ”(定一三九七頁)という。
即ち人間中心に教を立て、この現実的実体を仏徳光被の世界に成就せしめんとするものである」と。
現実の娑婆世界を仏徳光被の世界に成就せしめんとする菩提心は立正安国の宗是に外ならぬ。
末代の現実の人間の日常の振舞のあり方を重視する垂訓も、立正安国を宗教の使命とするからこそであって、法然の厭離穢土の宗教からは生れて来ない。
「一四、現在事 『本尊抄』等に説く凡夫為正の論は、これを時間的には末法為正ということになる。
“末法の始を以て詮と為す”(定七一五頁)、“寿量品の一品二半は始より終に至るまで正しく滅後の衆生の為なり。
滅後の中には末法今時の日蓮等が為也”(定八一四頁)等というもの即ちこれである。
末法とは常に現在の謂いで(略)これを聖人は“今本時”の語に約言している」と。
迹門の天台教学を本門化したところにも、像法中国的の天台教学を末法日本化したところにも聖人の事の法門の成立原因があるが、今は本門の三世の流布の中から選んで末法現在に立脚した宗教であるところを事と呼んだわけである。
結んで「複雑を去って純一に、観念を去って体験に、智解を信仰に、個人を社会に、理論的法界を人間的実証に、三世を現在に結帰したものである。
要は死法門を活法門たらしめんとした努力であったというべきであろう」と。
《『遺文辞典』教学篇「事」の項》
(浅井円道)