法体
法体
ほったい
(1)法そのもの。
諸法の体性の義にて法の本体。
一切万有の本体、実体。
有為、無為のもろもろの存在を「法」(dharma)とするが、その諸法(万物)の実質を法体とよぶ。
小乗有部派の根本主張に「三世実有法体恒有(さんぜじつうほつたいごうう)」がある。
これは有為無為諸法の本体が過去現在未来を通じて実在しているとみる説である。
大乗仏教ではこの「法体恒有」説を「空」で否定する。
空とは「実体がない」ということで、何もかも存在しない(虚無論)ということでなく「すべてのものには実体がない」ということである。
この空思想を完成させたのが龍樹であり、彼は法体を無自性(すべてが相対的な存在であって不変不動の実体はない。「縁起せるが故に空である」「縁起せるが故に無自性」すなわち、「空」は無に等しいのではなく、すべての事物が無自性にして縁起する)とし、存在の在り方を縁起によって解明した。
この龍樹の思想を受けて、諸法は実相なりと見究めたのが智顗であった。
法華経序品に「諸法実相の義は、已に汝等のために説けり」の文がある。
梵文にはdharma-svabhāva(法の本質)とあって、羅什がその語を諸法実相と訳したのである。
羅什は更に方便品の深遠な思想をこの語で表した。
「唯、仏と仏とのみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまへり」。
この後には有名な十如是が述べられている。
この部分の「諸法実相」に当る原語はなく、また十如是も羅什の達意的な訳文であることは周知の事実である。
羅什は真如・法性・中道・涅槃等種々の義を「実相」と訳したが、そこに羅什の法華思想があり、この方便品の真理に立脚して樹立されたのが天台法華思想である。
智顗は諸法の体を実相と観た。
そして即空即仮即中の円融三諦の原理でもって実相を解釈し、すべて相対差別の事象が、そのまま絶対無差別の真理にほかならないという、中道無性、円融具足の教学を展開する。
即ち天台の真理の実体(法体)は円融実相にある。
その具体的な在り方が「一念三千」で説明されるのである。
これに対して日蓮聖人は本門法華の立脚地から天台の法体を「理」とし、自らの宗教、法の当体を「事」として判別する。
聖人は法体について『四条金吾殿御返事』に「此の智慧とはなにものぞ、諸法実相十如果成の法体也。其法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経是なり」(定六三五頁)、
『諸法実相鈔』に「末法の始めの五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給」(定七二四頁)、
『御義口伝』に「法体とは南無妙法蓮華経なり」(定二六〇七頁)等と述べられている。
以上あげた三書には法体即妙法の明確な言があるが、三書とも偽撰もしくは疑書であって、聖人の教義を述べる場合には慎重にならざるを得ない。
しかし聖人の体得した法体とは、久遠実成の教主釈尊が本門寿量品の文底に秘められた、本因本果具足の事一念三千の南無妙法蓮華経であることには異論はないはずである。
古来「法体段」と呼ばれている『観心本尊抄』の正宗分の「今本時の娑婆世界は(略)」の四十五字がこのことを顕示している。
日蓮宗ではこの四十五字の文を当家の法体を宣明したものとして信奉してきたのである。
(2)浄土宗では阿弥陀仏の名号や念仏を法体という。
(3)法衣を着た出家のすがた。
《『講座仏教思想』一巻、安藤俊雄『天台学』、望月歓厚『日蓮教学の研究』、『遺文辞典』歴史篇「法体」の項》