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中道

ちゅうどう #330

中道

ちゅうどう

二辺、ち対立する二つの立場、の一方に執着する謬見を否定して、対立を越えた高次の立場に立つ実践をいう。
それは、ほどよさを意味する中間の道(中庸)をいうのではない。
この場合は対立する立場が肯定されているが、中道は対立的立場に対する否定を媒介として、それを超越する立場に立つことである。
中道は仏教の根本思想を顕すものとして、原始仏教以来、種々の中道えが説かれた。
原始経典(阿含経)においては八正道を、苦楽の二辺を離れた中道、即ち不苦不楽の中道と称する。
これは当の思想界で、人生の目的は快楽の追求にあると説くもの、反対に極端な苦行に執着するものがあったが、釈尊はそれはいずれも片よった実践であるとして、快楽主義と苦行主義の双方を否定した実践が八正道であるとえられたのである。
また原始経典には縁起について、非有非無の中道が説かれる。
これは一切は有であるという固定的な実在観、一切は無であるという虚無観のいずれをも否定・克服したものが縁起であるということである。
また原始経典・阿毘達磨等においては断・常二見を離れた中道を説く。
常見とは常住不変の我(アートマン)が真実なるものとして実在するという執見、断見とは一切の存在は滅無に帰するという執見であって、はこの二見を否定克服する立場に立つということである。
以上のような種々の中道の説を総合して、龍樹(Nāgārjuna一五〇-二五〇頃)は『中論』において不生・不滅、不断・不常、不一・不異、不来・不去という八不中道を説いた。
これは『中論』の冒頭の帰敬の偈に出ているのであるが、本論全体の趣旨を要約して示したものと解される。
本論の第二四章には「諸の因縁より生ずる法は、我は即ち是れを空なりと説く。また是れを仮名と為す。また是れは中道の義なり」とあり、古来、三諦偈と称しているが、これも『中論』の要旨を示したものと見られる。
また『涅槃経』は仏性を中道であると説いている。
また唯識説を述べた『解深密経』は、いわゆる有・空・中の三時教判を説いている。
これは小乗阿毘達磨における法有説と、『般若経』龍樹における一切皆空説とを、止揚・統一したのが唯識説における中道の思想であるということである。
元来、教以外の外道の思想に対して、仏教の立場をあらわすものとして中道が説かれたのであるが、次第に仏教内部の思想に対しても中道ということが強調されるようになった。
また唯識学派に属する弥勒の『弁中辺論』には一切法をに非ず、不空に非ずと見ることが中道であると説かれている。
解深密経』『弁中辺論』等の説に基づいて後に、法相宗における中道の説が立てられた。
においては三論宗の吉蔵(嘉祥大師)は『中論』の八不中道に基づきつつ、俗諦中道・真諦中道および二諦合明中道の三種中道を立てた。
ち不生不滅の真理を動ぜずして生滅の諸法を建立するのを俗諦中道と名づけ、生滅の仮名を壊せずして不生不滅の実相を説くのを真諦中道と名づけ、生滅にも非ず不生不滅にも非ず、言亡慮絶し四句百非を絶して畢竟空なるを二諦合明の中道と名づける。
また天台宗の智顗(天台大師)は上述の『中論』の三諦偈によって空・仮・中の三諦の説を立て、中(中道)について、但中と不但中の区別を説いている。
ち空・仮・中の三諦が隔歴し、空・仮の外に中ありとなすのを但中と名づけ、三諦が円融して即空即仮即中となるを不但中と名づけるのであるが、但中は別教、不但中は円教のあらわす中道の意味であるという。
『広説仏教語大辞典』『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』「中道」の項、宮本正尊『中道思想及びその発達』》

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