空
空
くう
サンスクリットのśūnya、またはśūnyatāの訳。
後者は正確には空性と訳す。
字義どおりには欠如を意味する言葉であって、あるものにそのものとしての性質のないことをいう。
しかし仏教においては悟りの境地を表わす言葉として用いられ、何ものにも限定されない無限の境地、何ごとにも捉われない自由の境地を空と称した。
空は、このように体験によって体得されるものであるが、仏教が発達するにつれて、その内容に理論的省察が加えられ、哲学的あるいは教義的説明がなされるようになった。
原始経典(中阿含経)の中には『大空経』『小空経』と称する経が存し、いかなる対象にも捉われない境地を、空をもって表現している。
小乗有部の教義(阿毘達磨)においては無我・無常の意味を空として表現しているが、有部は存在の構成要素としての諸法の実有を認めるので、空の内容は、大体において人無我の意味に限定される。
これを人空という。
即ち人間存在は、色・受・想・行・識の五蘊から成り、我がない点で空であるが、五蘊または五蘊に属する諸法は、人間存在を含めて一切の存在の基本的な構成要素たるものとして実有である。
ただし有部の教義においても、こうした五蘊などの諸法が空であると説くことが全くないというのではない。
大乗仏教においては『般若経』は一切諸法の空を説いた。
これを法空という。
この経は諸法の一々について、それが空であり、無所得・無所有であるから、捉われてはならないということを繰返し教えている。
『般若経』においては直観的に、一切諸法は夢・幻のごとく空であると説く場合と、理論的に諸法は因縁和合によって成立するゆえに、あるいは自性(固定的実体性)がないゆえに空であると説く場合がある。
また阿毘達磨における分析的類別的思考法を取入れて、一八種の空の分類(十八空)を立てている。
即ち内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空である。
また大乗最初の学者である龍樹(Nāgārjuna二-三世紀)は、空の思想を縁起によって理論づけた。
彼はその著『中論』において、一切諸法は因縁によって生起するものであるから、自性がなく、従って空であることを論証した。
彼においては空とは無自性、即ち諸法に固定した性質がないという意味である。
無着(Asaṅga)・世親(Vasubandhu)によって基礎を築かれた唯識学派は、小乗が人空であるのに対して、大乗は人法二空の思想であることを強調した。
即ち人間存在(人)のみならず、一切の存在(法)はすべて空であるというのである。
ただこの派は『般若経』や『中論』における一切皆空の説を承けながら、そこに「有」という表現が可能であることを強調している。
迷いの世界においては、諸法は空でありつつも、幻影のごとくある形をもって現されている点は有であり、悟りの世界においては空は「空性」という真実なるものとしては有であるというのである。
中国仏教においては、一般に「真空妙有」ということが主張された。
これは諸法の実相は一切諸法を空じた上に、肯定的積極的様相をもって現れるということであって、『般若経』の一切皆空の思想を越えるところの真空妙有の思想を表すものとして『法華経』『華厳経』『涅槃経』等の教えが高く評価された。
また智顗(天台大師=五三八-五九七)や吉蔵(嘉祥大師=五四九-六二三)は小乗仏教の説く空は、存在を分析して空であることを観ずるから、これを「析空観」と称し、大乗仏教の説く空は、存在そのものの本質において空の理法を観ずるから、これを「体空観」と称した。
また小乗は空のみを見て不空を見ないから「但空」であり、これに対して大乗は、諸法を空と見つつ同時に空でない面をも見るから、「不但空」あるいは「中道空」であるという。
ここから即空即仮即中の三諦円融の哲学が生れることになる。
法華経が空を重んずることは、例えば法師品に法師の守るべき三法として衣(忍辱)座(空)室(慈悲)の三軌が説かれることにより明らかである。
従って日蓮聖人も三軌を実践されたことは明らかであるが、御言葉の上では余り空の問題には触れず、それを一念三千に包括して示された。
《『遺文辞典』教学篇「空」の項、『広説仏教語大辞典』『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』「空」の項、『天台学辞典』「空と中道」の項》