妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

くう #4363

くう

サンスクリットのśūnya、またはśūnyatāの訳。 後者は正確にはと訳す。
字義どおりには欠如を意味する言葉であって、あるものにそのものとしての質のないことをいう。
しかしにおいては悟りの境地を表わす言葉として用いられ、何ものにも限定されない無限の境地、何ごとにも捉われない自由の境地をと称した。
は、このように体験によって体得されるものであるが、が発達するにつれて、その内容に理論的省察が加えられ、哲学的あるいは義的説明がなされるようになった。
原始経典(中阿含経)の中には『大経』『小経』と称する経が存し、いかなる対象にも捉われない境地を、をもって表現している。
小乗有部の教義(阿毘達磨)においては無我・無常の意味をとして表現しているが、有部は存在の構成要素としての諸法の実有を認めるので、の内容は、大体において人無我の意味に限定される。 これを人という。
ち人間存在は、色・受・想・行・識の五蘊から成り、我がない点でであるが、五蘊または五蘊に属する諸法は、人存在を含めて一切の存在の基本的な構成要素たるものとして実有である。
ただし有部の義においても、こうした五蘊などの諸法がであると説くことが全くないというのではない。
大乗仏教においては『般若経』は一切諸法のを説いた。 これを法という。
この経は諸法の一々について、それがであり、無所得・無所有であるから、捉われてはならないということを繰返しえている。
般若経』においては直観的に、一切諸法は夢・幻のごとく空であると説く場合と、理論的に諸法は因縁和合によって成立するゆえに、あるいは自(固定的実体)がないゆえにであると説く場合がある。 また阿毘達磨における分析的類別的思考法を取入れて、一八種のの分類(十八)を立てている。
ち内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・・自相・諸法・不可得・無法・有法・無法有法である。
また大乗最初の学者である龍樹(Nāgārjuna二-三世紀)は、空の思想を縁起によって論づけた。
彼はその著『中論』において、一切諸法は因縁によって生起するものであるから、自がなく、従ってであることを論証した。 彼においてはとは無自ち諸法に固定した質がないという意味である。
無着(Asaṅga)・世親(Vasubandhu)によって基礎を築かれた唯識学派は、小乗が人空であるのに対して、大乗は人法二の思想であることを強調した。 ち人間存在(人)のみならず、一切の存在(法)はすべてであるというのである。
ただこの派は『般若経』や『中論』における一切皆の説を承けながら、そこに「有」という表現が可能であることを強調している。
迷いの世界においては、諸法はでありつつも、幻影のごとくある形をもって現されている点は有であり、悟りの世界においてはは「」という真実なるものとしては有であるというのである。
においては、一般に「真妙有」ということが主張された。 これは諸法の実相は一切諸法をじた上に、肯定的積極的様相をもって現れるということであって、『般若経』の一切皆空の思想を越えるところの真空妙有の思想を表すものとして『法華経』『華厳経』『涅槃経』等のえが高く評価された。
また智顗天台大師=五三八-五九七)や吉蔵(嘉祥大師=五四九-六二三)は小乗仏教の説く空は、存在を分析して空であることを観ずるから、これを「析空観」と称し、大乗仏教の説く空は、存在そのものの本質において空の理法を観ずるから、これを「体空観」と称した。
また小乗は空のみを見て不空を見ないから「但空」であり、これに対して大乗は、諸法を空と見つつ同時に空でない面をも見るから、「不但空」あるいは「中道」であるという。 ここから中の三諦円融の哲学が生れることになる。
法華経がを重んずることは、例えば法師品に法師の守るべき三法として衣(忍辱)座(空)室(慈悲)の三軌が説かれることにより明らかである。
従って日蓮聖人三軌を実践されたことは明らかであるが、御言葉の上では余り空の問題には触れず、それを一念三千に包括して示された。
《『遺文辞典』教学篇「空」の項、『広説仏教語大辞典』『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』「空」の項、『天台学辞典』「空と中道」の項》

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