講
講
こう
大勢で信仰儀礼や修行を行う集団のことで、講中ともいい、その形態はさまざまである。
もとは、大寺院の中で仏教の研鑚をする僧侶たちの集まりのことであったが、仏教が民間に広まるにしたがって、一般の信仰集団を指すようになった。
特に江戸時代から庶民の間に講が教多く作られ、寺や神社へ盛んに参詣した。
今日、大寺や大社などを訪れてみると、石碑などに講名が刻みこまれているのを、よく見かけることがある。
日本の宗教界には、このような講が教多くみられるが、その中で日蓮宗の講には他と異なった特徴がある。
それは、どのような神仏を崇拝するにせよ、必ず「南無妙法蓮華経」と唱え、曼荼羅を礼拝することである。
たとえば、鬼子母神講・七面講・妙見講などは、それぞれ鬼子母神・七面天女・妙見神をまつる講ではあるけれども、絵像などには題目が書かれ、また題目を唱える。
従って日蓮宗の講を特に「題目講」と称するのが常である。
題目講の信仰内容には、(一)祖先の追善供養、(二)現世利益の祈祷、(三)自らの修行という、三つの要素があり、すべての要素を基本的に持ちながらも、いずれかを主眼として立てている。
また、講の形態としては、(1)寺院で行うもの、(2)村や町などの在家で自主的に行うもの、(3)祈祷師や先達の宅で行うものなどがある。
これらを組合せてみると、(一)の場合に(1)(2)、(二)の場合には(1)(3)、(三)の場合には(1)(3)というような結びつきがみられるようである。
しかも題目講におけるこのような形は、すでに江戸時代の頃から一般化していたように思われる。
自らの檀家を持たない本山クラスの大寺院や、日蓮聖人ゆかりの霊跡寺院は、これらの講を経済的なよりどころとしてきた面が強い。
特に江戸の身延講や守護神講の繁栄は目を見張るほどで、幕府によってしばしば題目講の禁止令が出されている。
その中でも団扇太鼓を打ちながら修行する題目講は、巷の注目を浴びたようで、明治政府は一つの講に太鼓一個と定めたこともある。
江戸時代の末期頃から、題目講のしくみは相当はっきりする。
ムラ、マチでは、十五、六軒の日蓮宗の檀家が集まって、講員の家を順に回りながら月並の題目講を行う。
このような小規模な題目講が幾つも集まり、大題目講を結成する。
これを「結社」などと呼び、大寺院の大法要や運営などに盛んに参加していった。
また裕福な地方では、題目講が祖師堂・祈祷堂などをお寺とは別に持っていて、ここでお籠りや題目講を行ったもので、この堂が後に寺院となった例は多い。
また、正式の僧侶ではない祈祷師などによって組織された講は、霊神霊仏が安置されている寺院に、その縁日をめがけて参拝し、お籠りなどをして修行を積んだ。
その信仰内容は、守護神信仰としての特徴をもっている。
このような祈祷講と、先に述べたムラやマチの祈祷講は、必ずしも同じ寺院を檀那寺としているとは限らない。
この点で、檀家制度とは異なる信仰組織であったといえよう。
従って、これらの講には正式な日蓮宗僧侶が干与することが少なく、その多くは下級の僧侶か、庶民自身によって指導されていた。
こういう意味では、庶民の信仰団体としての意味をもつものといえよう。
このような民間での講の広がりは、もとはといえば寺院側の布教活動に源を発している。
日蓮宗の寺院では、日蓮聖人のお会式や、盆・彼岸の法要に当って、参詣の信者たちに法華経の談義や日蓮聖人のご一生などを語り聞かせた。
これが古くからの講で、今日まで続けられている。
寺院での講は僧侶主導型で、若い僧侶たちの修錬と布教の場としての役割を持ち、高座説法はこの中から形を整えてきたのである。
日蓮宗の寺院は、このように檀家制度によってだけではなく、題目講によっても、力強く支えられてきたのである。
ところで、広く民衆を救済しようという大誓願をもって開宗された日蓮宗にとって、講は本来的に宗門組織の根幹でこそあった。
日蓮聖人は、教団の創設期に当って、天台大師講を盛んに行って、弟子や檀越の信仰を指導したのである。
中国で法華経の信仰を皷吹した天台大師智顗の遺徳を偲んで、その命日に当る一一月二四日を霜月会といい、大師の画像を掛けて摩訶止観などその著述を講讃した。
さらに毎月二四日にも、これに準じて各地で講が催されたに違いない。
従って日蓮聖人の教団は、天台大師の命日を機とする法華経講讃の講によって組織されていたと考えてよかろう。
日蓮聖人から遣わされた御書は、聖人の弟子たちによって講の場で読み聞かせられ、講会の場で出された信仰上の質門は、また弟子たちによって日蓮聖人のもとへ届けられたのである。
日蓮聖人が入滅されると、その命日に当る一〇月一三日と、逮夜に当る一二日とが、日蓮宗にとって重要な日となった。
今日に続く聖人のお会式(かつては御影講などと称した)がこれで、日蓮聖人の肖像(木像・絵像)を大曼荼羅とともに掲げ、その御宝前で題目修行をする習わしである。
題目講では、この日の信仰行事を頂点にして、毎月一二日か一三日に行われる月並の講行事が繰返される。
更に日蓮聖人の後継者として著しい功績を残した僧侶の命日にも、その遺徳をしのんで題目講を行った。
日蓮宗の歴史に、早くから十日講、十五日講などと、日を冠した名称が現れるのはこれからである。
やがて日蓮宗が全国に広まるようになると、地名を冠した講も現れてくる。
守護神の名をもつもの(鬼子母神講・妙見講など)、寺名を冠するものなどが現れるのは、更にずっと後のことである。
鎌倉時代から戦国時代にかけては、江戸時代から後にみられるような檀家制度はないわけであるから、講の問題を除外視して、中世の日蓮宗を語ることはできない。
いま、日蓮宗の歴史を振り返る時、題目講の果した役割には、実に大きいものがある。
特に日蓮宗のように葬祭よりほかの面に広い活動の場をもっている宗教にとって、講の比重は他の宗派よりずっと大きいものがある。
しかしながら、現今の教団体制の中にあっては、講は明確に位置づけられていないことは、改めて考えられなくてはならない。
その理由は、教団体制が寺院・教会・結社という、寺院によって組立てられていることと、講が本来的に帯びている不安定性によるものであろう。
しかしながら、過去において教団の飛躍的発展がなし遂げられた時期には、必ず題目講の飛躍的な成長があったことは、十分に注意されなくてはならない。
《『遺文辞典』教学篇「講」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「飯高題目講」「松ヶ崎題目講」の項、『国史大辞典』五巻「講」の項、小松邦彰・花野充道『日蓮教団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)》
(中尾堯)