大曼荼羅
大曼荼羅
だいまんだら
日蓮聖人は佐渡流罪以後、上行菩薩の応現であるとの御自覚に立たれたが『観心本尊抄』において末法の本尊を示され、次いでそれを一幅の紙面に緊密な調和のもとに図顕された。
これを大曼荼羅、または大曼荼羅本尊という。
(一)日蓮聖人御真筆にかかる大曼荼羅は現在一三〇余幅が確認されている。
『日蓮聖人真蹟集成』第一〇巻(立正安国会版『日蓮大聖人御本尊集』を再録)には、文永期二五図、建治期二一図、弘安期七七図の一二三幅の真筆大曼荼羅の影写を収録するが、その後、立正大学日蓮教学研究所等によってそれ以外に十幅余の真筆大曼荼羅が確認されている。
聖人御真筆大曼荼羅のうち、現今伝えられないものもあるが、それらを含めて身延山第三三世遠沾日亨が、その当時、身延山久遠寺が所蔵する二四幅その他一〇幅を模写した聖人の真筆大曼荼羅を収録した『御本尊鑑』があり、また稲田海素『御本尊写真鑑』がある。
(二)日蓮聖人は生涯を通じて立像の釈尊を随身仏(ずいしんぶつ)とされ、聖人滅後、日朗に譲られた。
ところで文永八年(一二七一)九月一二日の竜口法難以後、上行菩薩応現の御自覚を顕された。
即ち文永九年『開目抄』においてその御自覚を垂示し(人開顕)、文永一〇年『観心本尊抄』を著して本門の本尊・本門の題目を示し、なお本門の戒壇を密釈され、文永一一年正月『法華行者値難事』において、本門の本尊と四菩薩と戒壇と題目の五字を述べて、三大秘法の名目を明示された。
一方、五義においてもこれらの展開のなかで第五の「教法流布の先後」が「師」へと転換し、佐後の法華経開顕が聖人の師自覚に基づくものであることが看取される。
こうした経過のなかで文永一〇年四月『観心本尊抄』における本尊の開示に続いて、一夏九旬(いちげくじゆん)即ち一季節九〇日の沈潜を経て、同年七月八日、大曼荼羅を始めて図顕されたと伝える。
これを始顕本尊とよび、その型状・座配は日亨『御本尊鑑』によって知ることができる。
その座配は文永一一年七月二五日(千葉県藻原寺蔵)の大曼荼羅とおおかた同じである。
(三)始顕本尊では列座の諸尊のすべてに「南無」を冠しているところから、同本尊を「総帰命の本尊」とよぶ。
総帰命式は文永一二年四月までの大曼荼羅に見られるが、のち四聖帰命式(ししょうきみょうしき)に変化する。
四聖帰命式とは仏・菩薩・縁覚・声聞の四聖(ししょう)のみに南無を冠するものを指す。
なお列座の仏名・諸尊名等にも多少の変化がある。
日蓮宗は弘安三年(一二八〇)三月(鎌倉妙本寺蔵)の「臨滅度時の本尊」をもって宗定本尊と定めているが、今、同本尊によって大曼荼羅座配の大要を述べると、中央に南無妙法蓮華経が独特の光明点(こうみょうてん)の筆法によって大書される。
この筆法は俗な表現では、ひげ題目といわれる。
その両脇の第一段には(左)南無釈迦牟尼仏―(右)南無多宝如来(法華経証明の仏)を比較的大きく書き表し、その両脇に久遠釈尊の本化(ほんげ)の菩薩(本弟子)である上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)の四菩薩を配する。
これは法華経説法の霊山会上(りょうぜんえじょう)で、教主釈尊が三世諸仏説法の儀式として、仏教の終窮極説の法華経を説かれるのを、多宝如来がその本願として真実の教説であると証明した姿を示されたものである。
南無十方分身諸仏・南無善徳如来が建治期の大曼荼羅のなかに書き表されているのも同様の趣旨で、分身諸仏が法華経の説法を賛嘆したことが重要なことだからである。
なお聖人は遺文のなかで東方善徳如来についてはあまりふれることはないが、釈尊・多宝如来・分身諸仏を三仏として重んじられているのであり(『観心本尊抄副状』定七二一頁)、聖人の帰依のありようと重ね合わせて理解しなければならない。
第二段には、釈尊在世の弟子が書きしるされている。
文殊師利は序品にみられるように智徳・証徳を司り、過去に宿習深く、法華経説法の趣意を省察すること深い。
普賢は理徳・定徳・行徳を司り、懺悔をすすめ、法華経の救済を授ける。
舎利弗・迦葉等の四大声聞は、法華経迹門において授記作仏したその次第によっている。
また梵天は欲界の主、釈提桓因(帝釈)は三十三天の主、第六天魔王は三界の魔王、日月明星は閻浮提の三光天子、輪王は人界の主、阿闍世は摩竭陀の主、阿修羅は修羅界、竜王は畜生、提婆は五逆の故に地獄界をそれぞれ表している。
そしてこれら九界が等しく皆成仏する浄土の姿を顕しているのである。
第三段には、龍樹、天台、妙楽、伝教と鬼子母神、十羅刹女、天照、八幡等が配せられている。
まず龍樹・天台等の先師を配している点については、印度・中国・日本における法華弘通の先聖、あるいは内鑑冷然の師、外相承の師を表している、といった解釈がされている。
次に鬼子母神、十羅刹女の座配については、(1)文永から建治元年の末までは、第二段・第三段のいずれに配されるか未定である。(2)加えて建治元年(一二七五)一一月のもの(京都妙顕寺蔵)では、第二段の菩薩二乗の下に配せられ、(3)また弘安以後のものに修羅、輪王、竜王、提婆等が概ね第二段目と第三段目との間に配せられていることなどから見て、鬼子母神、十羅刹女は最初第二段目に配されていたものが、諸尊の添加のため、溢れて第三段に列せられるようになり、次第にそれが習慣となって、第三段の上位に配せられるようになったと推測される。
次の両側の二明王と、四天王についてであるが、四天王は法華経中、序品、方便品等の記述に見られ、北方を上座として、東西南北に配されている。
即ち『大集経』提頭頼咤天王護持品第十一には「爾の時、仏、楽勝提頭頼咤天王に告げて言はく、妙丈夫よ、此の四天下の閻浮提中、東方の第四方は汝応に護持すべし」(大正一三-三四六頁、原漢文)として、楽勝提頭頼咤天王(持国天)は東方守護の天王であることを明かしている。
『大集経』では他三方位についても同様に、大華毘樓勒叉天(増長天)は南、栴檀華毘樓博叉天(広目天)は西、拘韈羅毘沙門天(毘沙門天)は北を守護することを明かしている。
大曼荼羅では右上方に持国天、右下方に広目天、左上方に毘沙門天、左下方に増長天を配列している。
この配列については文永・建治(一二六四-七七)の頃は混用されていたが、始顕本尊並びに弘安晩年の頃のものは、東西(右)南北(左)と順次に配列されている。
二天王については、古来の相伝では左が愛染明王、右が不動明王のそれぞれの種子とされており、四天王と並んで四方の守護とする解釈がなされている。
(四)前述のように、大曼荼羅は末法救済の本尊として表されたものであるが、そのことは大曼荼羅下部の讃文に明瞭に書き表されている。
文永一二年四月以降建治年間のものに、「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提未曽有之大漫荼羅也」等としるされているのがそれである(ただし、文永一二年四月に顕された五幅と、弘安三年=一二八〇=八月以降のものは二千二百三十余年とし、弘安初年頃は二十余年と三十余年の両者を併用している)。
これらの趣旨について『日蓮聖人真蹟集成』の番号〔一三〕(文永一一年七月二五日、聖人五三歳)には〔大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間、経文有りと雖も、一閻浮提之内未有の大曼陀羅也、意得るの人之を察せよ」(原漢文)としるしてある。
更に〔一六〕(文永一一年一二月、聖人五三歳)には「甲斐国波木井郷山中に於て之を図す、大覚世尊御入滅後、二千二百二十余年を経歴す。爾りと雖も、月・漢・日の三ケ国之間、未だ此の大本尊有らず、或は知って之を弘めず。、或は之を知らず。我が慈父、仏智を以って之を隠し留め、末代の為に之を残したまへり。後五百歳之時、上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣したまふ」(原漢文)とある。
これは『本尊抄』の「此の時、地涌菩薩始めて世に出現し、但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」(原漢文、定七一九頁)に照応するものであり、日蓮聖人が上行菩薩の応現として、この大曼荼羅を図顕された趣意を知ることができる。
前掲の讃文の意味はすべてこの〔一三〕〔一六〕の讃文の意味を要約したものであり、それゆえに聖人は大曼荼羅授与に慎重であられたのであり、故郷安房の領家の大尼の要請に対しても授与するか否か慎重になられたのである(『新尼御前御返事』定八六六頁)。
なお、このほかに聖人はしばしば讃文を付されることがあるが、わずかに一四種の経釈を用いられているにすぎない。
法華経では譬喩品・法師品・安楽行品・寿量品等の引用は久遠釈尊の救済と法華経の超勝を讃するためであり、薬王品の「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」は、子どものなかでも病子への愛情が強く表れるように(涅槃経梵行品)、仏陀の慈悲も五逆・一闡提の病める衆生に強く与えられている(同現病品)という意味と深くかかわっている。
ことに伝教大師『依憑集』の「讃する者は福を安明に積み、謗ずる者は罪を無間に開く」(『伝全』第三巻三六四頁、原漢文)の文は文永一一年(身延入山)以降に讃されるが、これは同時期の遺文にも強く見られるところであり、聖人が謗法の大病・大逆罪に堕している衆生に対して、無間地獄の道をふさぐのはもっぱら釈尊の随自意の法華経本門の救いを信ずることにあるとし、その信仰の貫徹を強く促すことに眼目が置かれていることを意味するものであろう。
(五)大曼荼羅の形状について『日蓮聖人真蹟集成』第一〇巻所収分を分類してみると、一紙(料紙一枚のこと)五〇点、二枚継九点、三枚継五一点、四枚継三点、六枚継一点、八枚継一点、一〇枚継二点、一二枚継一点、一八枚継一点、二〇枚継一点、二八枚継一点のほか、絹本に三枚継相当・一〇枚継相当の各一点がある。
そのうち被授与者が明らかなものは五三・六%である。
そこで形状の大きさと被授与者との関係を調べると、大きく三枚継までのものと四枚継以上とによって分類されよう。
前者は檀越個人・聖人の弟子個人に与えられたものと考えられる。
しかし厳密に言えば僧・俗ともに背後に若干の檀越(信徒)集団があることが想定され、ことに僧や教団の中心的檀越に与えられた三枚継本尊にはそうした面が強いように思われる。
そして後者については現在に伝えられるものはわずかに一二例しかない。
これらの多くは初期教団の中心であった法華堂のために聖人が図顕されたものであろう。
例えば比企谷法華堂(現在の妙本寺)には〔三四〕一〇枚継、上総藻原法華堂(藻原寺)〔一三〕六枚継、下総平賀法華堂(本土寺)二〇枚継、弁阿闍梨の坊(玉沢妙法華寺)〔三七〕八枚継、〔一〇一〕一二枚継等がそれに該当するであろうし、なお、そこから推論すると、それ以外の法華堂も同様であったと考えられる。
その意味からすれば、三枚継以下においても、諸人集会、教説聴聞の場が想定されていると考えられる。
なお『日眼女釈迦仏供養事』には「御守書きてまいらせ候」(定一六二三頁)とある。
そして、この御守とは日眼女に授与された〔七二〕一紙の本尊であると考えられる。
これは三七歳の厄に悩む日眼女への信仰指導と合せて授与されたものであろう。
なぜ大曼荼羅本尊を御守とよばれたかということの疑問に照応するものに『新尼御前御返事』がある。
即ち旱魃・疫病・飢饉・兵乱等の災難が起り、諸仏・菩薩・大善神の力が及ばず、諸人がぞくぞくと無間地獄に堕ちる時、「此五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれ、乃至後世の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給ひぬ」(定八六七-八頁)と同書に述べられている。
これによると即ち御守とはこのような末法悪時における救済の確証と加護を意味するものであると考えられる。
また特異なものとして〔三八〕〔四〇〕に「亀若護也」「亀姫護也」という授与書が花神の中に記されている。
これらは列座・讃文とも特異な様式を示しているが、その根本趣旨は前述のような救済・加護の尊崇にあるものであろう。
(六)以上のような大曼荼羅の座配については、およそ次の四つの類型が挙げられている。
(1)中央首題に二明王または日月衆星・四天王を配しているもの。中央首題に「今此三界」の讃文を付しているもので、二尊四士を欠いているもの。
(2)総帰命式の形態をとり、本化四士が記されているものと、記されていないもの。
(3)四聖帰命式の形態をとり、分身諸仏と本化四士を欠くもの、分身諸仏を欠くもの、分身諸仏在座のもの。
(4)四聖帰命式の形態をとり、迹化菩薩と声聞衆を略しているもの、迹化菩薩在座のもの。
以上の四類型であるが、更に細部に亘って分類すると、大曼荼羅の儀相は一二八種類にものぼる。
(七)このほか書体の変遷・花押の変遷が見られる。
即ち首題は、文永期には上部を大きく記し、下部を小さく記している。
建治期には上下がほぼ等しく、弘安期に至ると上部を小さく、下部を大きく記するようになる。
また書風の変遷については「経」の字に著しい年代の変化が見られる。
これを四期に分けると次の如くになる。
(1)第一期文永八年一〇月―建治二年八月
(2)第二期建治三年二月―同年一一月
(3)第三期弘安元年三月―弘安三年三月、但し弘安元年八月を除く
(4)弘安元年八月、弘安三年三月~弘安五年六月
以上の記述の多くは、厳密な考証による山中喜八の研究の成果によった。
次に花押の変遷については次の如くである。
花押は中国唐代に見られるように、文書の偽作を防ぐために、自署を草書することから起ったといわれている。
花押には一方の扁(へん)と他の旁(つくり)を合せたものや、一字を取って作ったものなどがある。
聖人の場合は梵字を模様化されたものであり、梵字を花押に使うことは真言関係の僧に多く見られるという。
聖人は殆ど全部の消息及び曼荼羅にその花押を記されているが、消息の場合は責任と儀礼の意味が含まれている。
これに加えて曼荼羅への花押は、荘厳の意味も含まれていたのであろう。
古来からの宗門の伝承では、聖人の花押は全て梵字のभ्रूं (ボロンbhrūṃ)を模様化したものであるとされていた。
しかし山川智応によって、聖人の花押は弘安元年(一二七八)五月以前ではवं(バンvaṃ金剛界大日如来の種子)字を模様化したものであり、同年六月以降にभ्रूं (ボロンbhrūṃ一字金輪仏頂尊の種子)字を模様化したものに変化したのである、ということが指摘された。(図参照)
また鈴木一成は、この考証に対して弘安元年五月以前の花押については単なるवं字とは言い切れないのではないかとしながらも、弘安元年五、六月を境として、花押に変化があることを指摘している。
いずれにせよ、聖人の花押は弘安元年を境として変化しているのである。
《山中喜八『御本尊集』、身延山短期大学出版部『本尊論資料』、茂田井教亨『開目抄講讃』、山中喜八「日蓮聖人曼荼羅図集」『大崎学報』一〇二号、鈴木一成『日蓮聖人遺文の文献学的研究』、塩田義遜「大曼荼羅儀相の研究」『棲神』二二号、山川智応『日蓮聖人研究』、渡辺宝陽「日蓮聖人の三仏帰命」『大崎学報』一二五・六号、渡辺宝陽「大曼荼羅と法華堂」『研究年報・日蓮とその教団』一、小松邦彰・花野充道『日蓮の思想とその展開』(春秋社『シリーズ日蓮』二)、『図説日蓮聖人と法華の至宝』一巻「曼荼羅本尊」、『遺文辞典』教学篇「大曼荼羅」の項、『日蓮辞典』「大曼荼羅」「十界曼荼羅」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「曼荼羅」の項、『広説仏教語大辞典』「大曼荼羅」「十界大曼荼羅」の項、『岩波仏教辞典』「十界曼荼羅」の項》
(渡辺宝陽)
図版