内鑑冷然
内鑑冷然
ないかんれいねん
内心では明らかに考え知っていても、表面に顕さないこと。
『摩訶止観』第五の語で「天親龍樹内鑑冷然たり、外には時の宜しきに適うて、各権(か)りに拠る所あり」とある。
同文は仏教の二大系統である龍樹・提婆系の法性無相の説と、無著・天親系の法相有相の説を対比して、内証は冷然としていて同じだが、時機に応じて説く法門は同じでないことを認め、末師の論争を戒しめたもの。
日蓮聖人はこの文をしばしば『本尊抄』『開目抄』『撰時抄』等に引用し、あるいは意趣をとって法華経の十界互具・一念三千・妙法五字の法門の正統性と超勝を主張して、経文にも諸論師も同法門を説いていないとの批判に反論している。
なぜ龍樹、天親らが知りながら広めなかったかについては、『撰時抄』では「龍樹・天親等は内心には存ぜさせ給ふとはいえども言には此義を宣べ給はず。求めて云く、いかなる故にか宣べ給はざるや。答て云く、多くの故あり。一には彼の時には機なし、二には時なし、三には迹化なれば付属せられ給はず」(定一〇〇九頁)と、聞く人、時、付属の三つがなかったからと示している。
《『遺文辞典』教学篇「内鑑冷然」の項、『日蓮辞典』「内鑑冷然」の項》