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龍樹

りゅうじゅ #5342

龍樹

りゅうじゅ

Nāgārjuna 龍勝とも訳す。
西暦二-三世紀(一五〇-二五〇)頃の人。
南インド(デカン高原のヴァイダルバ地方)のバラモンのに生れた。
若くして学問に秀で名声を博した。
教に帰依して、初め小乗を学んだが満足せず、北インドに行って大乗を学んだ。
その後も大乗経典を求めて各地を遍歴し、大乗を体得して多くの論を著した。
晩年南インドに帰り、キストナ川中流の黒峰山に住し、ナーガアルジュニーコーンダで亡くなったという。
鳩摩羅什訳『龍樹菩薩伝』、および吉迦夜・曇曜訳『付法蔵因縁伝』によれば、阿周陀那(arjuna)という樹の下で生れたので字を阿周陀那といい、竜によって道を成じたので号を龍樹といった。
生れつき聡明で、幼、バラモン達が四ヴェーダを誦するのを聴いてその文を暗誦し、意味も領解した。
二〇歳にして名を馳せ、文・地理・未来記に通じた。
友人三人と語らい術師より隠身の術を授けられて身をかくし、王宮に入って女色にふけったが、やがて発覚し友人三人は殺され、身に危険が及んだので初めて「欲は苦の本」であることを悟る。
危地より脱し、山中に入って塔にいたり、出家して戒を受け、九〇日間で三蔵を誦し尽くした。
更に経を求めて遂に雪山に入り、一老比丘より摩訶衍(mahāyāna大乗)の経典を与えられた。
これを愛読して意味は解したがいまださとりを得られなかったので、なおも諸を周遊して余経を求めた。
この外道の論師や沙門の宗義をことごとく摧伏した。
大竜菩薩は龍樹を海中の宮殿に連れてゆき、、七宝の蔵を開き方等深奥の経典、無量の妙法を授けた。
龍樹はこれを読むこと九〇日間にして実利を体得し、二忍(生忍と法忍)を具足した。
その後、龍樹は南インドに行き、バラモンとの術くらべに勝ってこれを帰依せしめ、また南インドの王を化した。
広く大乗経典を説き明かし、多くの論を著した。
『優波提舎十万偈』『荘厳仏道論五千偈』『大慈方便論五千偈』『中論五百偈』『無畏論十万偈』を作ったという。
龍樹の死後、南インドの諸国は廟をたての如くに敬奉したと記されている。
志磐の『祖統紀』の「西土二十四祖」では龍樹を一三祖とし、入滅後七〇〇年の人としている。
また中観派の祖といわれ、中国・日本では古来八宗の祖と仰がれ、真言宗では龍猛の訳名を用いて付法の第三祖・伝持の第一祖とされている。
著書のうち重要なものとして、般若観による根本思想を示した『中論頌』『十二門論』『空七十論』、外道を破しつつ空思想を明かした『廻諍論』『六十頌如理論』『広破論』、大品般若の註釈で仏教の百科全書ともいうべき『大智度論』、十地経を註釈した『十住毘婆沙論』、三論唯心を明かした『大乗二十頌論』、実践門を明かした『菩提資糧論頌』『宝行王正論』『龍樹菩薩観誡王頌』などがある。なお、龍樹とその著作については最新の研究もあるので参照されたい。
龍樹の弟子提婆は『百論』を著した。
三論宗は龍樹の『中論』『十二門論』と提婆の『百論』の三論に基づく宗で、隋の嘉祥大師吉蔵が三論学を大成した。
日蓮聖人は『摩訶止観』五の「天親龍樹内鑑冷然外適時宜」の文により、印度の右の両大士も法華経の肝心の精神たる一念三千を心得ていたが、弘めるべき時を得なかったので外部に向って流布することを遠慮されたとされ、また『大智度論』の「譬如大薬師能以毒為薬」の文を妙法五字の妙の字の有する功能なりとして、即身成仏(→そくしんじょうぶつ)を遂げる上に大切な法門とされた。
《蓮沢成淳訳「龍樹菩薩伝」『国一』和漢撰述七四巻「史伝部」六、野村耀昌・大川富士夫訳「付法蔵因縁伝」『国一』和漢撰述九七巻「護教部」四上、宇井伯寿『印度哲学史』、同「三論解題」『宇井伯寿著作選集』第四巻、金倉円照『インド哲学史』、平川彰『インド仏教史』上巻、塚本啓祥『仏教史入門』、『遺文辞典』歴史篇「龍樹」の項、『日蓮辞典』「龍樹」の項、『岩波辞典』「竜樹」の項

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